甘口辛口

田中長野県知事の敗北

2006/8/7(月) 午前 11:38
一言でいえば、田中康夫長野県知事は、怖いもの知らずのお坊ちゃんだった。
彼に関するエピソードのうちで、一番印象に残っているのが高校時代に毎日、新聞を読みに職員室に通ったという話だ。

高校生にとって、職員室ほど厭なところはない。ところが田中康夫少年は、職員室備え付けの新聞を読むために平気で、他の生徒が鬼門としている職員室に通っていたというのだから、その心臓の強さは並ではない。彼は多分、家ではやりたいことを何でもやらせて貰って、自由奔放に育てられたのである。それで世の中に怖いものはなくなってしまったのだ。

選挙で圧勝して知事になると、彼は記者室を「表現道場」と改名し、知事室を階下に移してガラス張りにしたりした。そして、背広の襟には、まるで小学生のように縫いぐるみのアクセサリーをいくつも括り付けた。知事になってからも、やることなすこと、タレント志願者が見せつけるパフォーマンスみたいだったのだ。

お坊ちゃんというのは、自分の意に逆らう者があれば、同志であろうが恩人であろうがみんな追放してしまう。彼は自ら選任しておきながら、何人もの副知事や部長・委員の首を切っている。そして、自分を知事にしてくれた大恩ある銀行頭取や初代後援会長とも疎遠になり、県議会や市町村長と対立し、県庁職員と犬猿の仲になった。

孤立無援になったお坊ちゃん知事は、それでも懲りずに住民票を県北の長野市から県南の泰阜村に移し、山口村の越県合併に横やりを入れ、そのトラブルメーカーぶりを遺憾なく発揮して県民をうんざりさせた。今回の知事の敗北は、身から出た錆というほかはない。

しかし、私は田中知事を破った候補を歓迎しているのではない。とにかく、田中康夫は戦後長く続いた、悪しき長野県政に終止符を打ってくれたのである。田中知事が誕生するまでの長野県政は、何ともひどいものだった。官僚出身の知事と県会のボス議員が手を組み、この両者が法案をフリーパスで通過させ、上から県民に押しつけていたのだ。

(参照:http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/kizi6.html

同じトップダウン方式でも、田中知事のそれより、「官僚知事+ボス議員」連合のものの方がはるかに悪質だったのである。新しい知事が、昔のトップダウン方式を再現しないように祈るばかりだ。

住民票を泰阜村に移して失敗した田中知事は、両親の住む軽井沢に住民票を移した。彼は、母親の作ってくれた弁当を持ち、父の運転する車で軽井沢駅まで運んで貰い、そこから長野県庁に通っていたのである。彼にとって、両親の膝下で暮らすのが一番心安まるのである。知事職を離れる田中康夫は、これから心おきなく両親と暮らせるようになる。この方が幸福ではないのかね、田中康夫君。