甘口辛口

空襲の記憶(1)

2006/8/14(月) 午前 10:22
サイパン島が陥落したのは、昭和19年の7月のことだった。
当時、私は旧制中学を出て東京の全寮制の学校に入っていたが、サイパン島玉砕のニュースに衝撃を受けた一部の上級生が、突如、附属小学校の校庭で慰霊祭を開くと通告してきたので、ほかの寮生達と一緒に夏の夜の校庭に集合した。

慰霊祭を主催した学生たちは、寮の幹部学生にはかることなく直接寮生を招集したから、寮長等は、内心、不満たらたららしかった。そのことは、慰霊祭に顔を出した彼等の、むすっとした仏頂面からも見て取れた。

照明のない真っ暗な校庭に、数百名の学生が集まる。前面に、自らの民族派の思想を強調するため着物と袴を着用した主催側の学生数人が立っている。明かりといえば、彼等が手にしている数本のローソクだけだった。

学生達が押し黙って見守る中で、慰霊祭が始まった。着物・袴姿の学生が一人、前に進み出て巻紙に書いた弔辞を読み始めた。弔辞を読み上げる甲高い声が暫く続く。それが終わり、次の式次第に移ろうとしたときに、主催者らの前に、不意に「ホスケ」と呼ばれている舎監が姿を現したのだ。後に歴史学者として名を知られることになるN助教授だった。

「この集まりは誰の許可を得て開かれたのか」と一喝しておいて、N助教授は主催者側の学生等に向き直った。国民の一人として慰霊祭を正面から非難できないと感じた彼は、揚げ足取り式論法を用いて相手をやりこめることにしたのだ。
「君らの服装は何だ。夜間に外出するときには、服を着て帽子を着用することになっているだろう。早く服装を変えてくるんだ(注:空襲にそなえて、軍部は夜間外出する際の服装について通達を出していた)」

そして、黙って見守っている寮生達に、「慰霊祭は終わった。すぐ解散するように」と命じた。間髪を入れない鮮やかな手際だった。私たちは集まるときと同様に、黙々と、寮に戻った。

サイパン島を陥落させた米軍は、ここに大規模な飛行基地を作り、日本本土空襲を本格化させることになる。附属小学校の校庭で行われた暗夜の慰霊祭は、その幕開けの儀式になったのだった。(つづく)