甘口辛口

空襲の記憶(3)

2006/8/15(火) 午後 3:18
空襲が本格化すると、私達が「建物の間引き」をして歩いたことなど、全くナンセンスだったことが明らかになった。間引きをしようが、しまいが、下町の全体が拭き取ったように焼け失せてしまったからだ。

米軍機の空襲によって、東京は甚大な被害を受けたけれども、私はその現場にほとんど立ち会っていない。学校の寮は空襲ですべて焼失したが、その時には私達は蒲田地区の工場に動員されて留守をしていたからだ。東京で暮らしていながら、私にとって空襲は対岸の火事のようなものだった。というより、空襲は美的鑑賞の対象にすらなっていたのだ。

朝方に出た空襲警報が解除されたので工場の寮から出勤すると、道路の両脇に点々と並ぶ民家が焼夷弾を浴びて燃えている。路上には無言で工場に向かう私達の列があるだけで、あたりに人影は見えない。そんな中で誰も消すものがないままに、家だけが空しく燃えているのである。聞こえるのは、炎のはぜるパチパチという音ばかりなのだ。何かそれは篝火を見ているような気持ちにさせた。参道の両側に燃える篝火を見ているような錯覚。

毎夜のように襲来する米軍機B29も、見方によれば夢のように美しかったのである。
B29は編隊で来襲しないで、一機、又一機というようにあちこちから現れて上空を通過していった。探照灯の光を浴び、銀色の機体を夜空に浮かび上がらせたB29は、大型トンボの「銀やんま」を思い出させた。飛行機が高空を飛んでいるため地上から打ち上げる高射砲の弾は届かないらしく、B29が撃墜されるところを見たことは一度もなかった。

B29は探照灯の光がうるさくなると、時折、機関砲で反撃した。上空から放たれる機関砲の弾が線を引いて地上に突き刺さるのを目にして、初めて、私達はB29が凶悪な敵機であることを思い出すのだ。

私達は空襲警報が出ても防空壕には入らず、夜空を見上げて傍若無人に行動するB29を眺めていた。米軍機はサイパン島を飛び立って日本近海に近づくと、富士山を目印に東京への進路を決めるといわれていた。国粋主義者達は富士山を「霊峰」と呼んで自慢の一つにしていたけれども、米軍機を「帝都」に呼びこむ道標になっていたのだ。

「見ろ、体当たりをするぞ」
日本の戦闘機がB29に向かって下方から接近するのが見えた。日本機は実に小さくて、B29が銀やんまとしたら、日本機の方は有るか無きかのヤブ蚊にしか見えない。

息を詰めてみていると、あともう少しというところで日本機は急に動きを止め、機体から黒い一筋の煙を引きながら落下し始めた。そして探照灯の光圏の外に出て見えなくなった。機銃によるB29の反撃を受けて撃墜されたのだ。

「畜生」
私達はそんな風に舌打ちするしかなかった。
後になって知ったところによれば、B29の機体は気密構造になっているため、一万メートルの高空を飛んでいても、乗員が酸欠状態になることもないし、寒気にやられることもない。だが、気密構造になっていない日本機は、B29と同じ高さまで上昇すると、寒気と酸欠のため、乗員を失神状態にしてしまったのだった。

敗戦3ヶ月前の昭和20年5月に徴兵されて東京を去った私には、空襲の記憶はこれくらいしかない。

しかし、恐ろしいと思うのは、昭和20年3月10日に行われた東京大空襲の実態について、講和条約締結後になるまで何も知らなかったことだ。日本軍部に加え、アメリカのGHQまで、住民の大量殺戮を目的にしたこの空襲の実態を隠していたからだ。