甘口辛口

神が消えた(3)

2006/8/26(土) 午後 9:34
「不思議な体験」に懐疑的な人々は、体験者がこの瞬間の印象を「至福」とか「至高」と表現することに嫌悪の表情を示す。しかし、体験者が、「自分がこれまで生きてきたのは、この瞬間に遭遇するためだったのだ」とか、「こんな世界を知った以上もう死んでもいい」と思うほどの深い喜びに襲われることは事実なのだ。

この深い歓喜は、この世のすべてを肯定し、信受する心境になったことから来ると思われる。あらゆるものを信受する境地は、体験者をしてこれまで一度も知らなかったような深い愛を体験させる。この愛は、個々のものへの愛ではない。肉親に対する、あるいは妻子や恋人に対する愛を取るに足りないものと感じさせるほど広大無辺な全体への愛なのだ。
こうした「不思議な体験」について考えていると、どうしても宇宙的自我とか、宇宙意識という概念が浮かんでくる。

人間には、個体意識のほかに、宇宙意識があるといわれてきた。
人間は一個の個体であるけれども、同時に宇宙を構成する単位の一つであり、宇宙的エネルギーの端末でもある。従って、個体意識が自らの肉体に執着するように、宇宙意識も宇宙に執着する。人が何時までも生きていたいと思う理由は、肉体への愛着と同時に、この宇宙世界への愛着があるからなのだ。

個体エネルギーと個体意識を収納しているのが表自己だとすれば、宇宙エネルギーと宇宙意識を収納しているのが裏自己である。だが、表自己と裏自己では、その働きにかなりの違いがある。表自己は、外界におのれのエネルギーを投出し、外界をコントロールし、支配しようとする。だが、裏自己はこの種の所有欲や支配欲を持たない。裏自己の願うところは、宇宙にあるすべての存在を受け入れ、理解し、内界に真正の世界像を確立することだけである。裏自己はすべての個体が助け合い共存する世界を期待する。

人間が表自己だけで生きていたら、この世は終わり無き闘争の場になる。表自己は、自分の活動空間が拡がったと思えば明るい気分になり、活動空間が狭まったと思えば暗い気分になる。そして自己の活動領域を広げようとして、テリトリーを巡って争う野獣のような争いを続けることになる。この争いにブレーキをかけるのが裏自己なのである。

だが、裏自己は目に見える形で表自己にブレーキをかけるわけではない。裏自己と表自己の関係に最も近い関係は、「タオ」と万物の関係ではないかと思われる。

老子はいう、「宇宙の根源的生命であるタオは、万物を生み出しながらこれを所有しようとしたり、支配しようとしたりしない」と。タオが個人に求めるのは、おのおのが自らのペースを守って、穏やかに生きることだけなのだ。人間も、国家も、困ったときには助け合うけれども、それ以上に濃密な関係を持つべきではないと老子はいうのだ。万人は「その居に安んじ、その俗を楽しむ」べきであり、共に楽しんでも興が尽きれば淡々と別れるのが本来の姿なのである。村と村、国と国も、相手方の鶏・犬の鳴き声が聞こえるほど近くにあっても、互いに往来しないのが望ましい。

タオがこうした自主自楽のあり方を国や個人に求めながら、あえて万物を自然のまま放任しているのは、人間が過度を望めば自滅するという社会構造の中に生きているからなのだ。個人が正義を求めすぎれば「奇」となって人々の嘲笑を浴びるし、善を求めすぎれば「妖」となって人々から警戒される。「天網恢々疎にして漏らさず」という現象が成立するのも、現世にはこうした過度化を抑える構造があるからなのだ。

裏自己が表自己に臨む態勢も、タオが万物に対する関係に近似している。裏自己は表自己の振る舞いを背後から静かに黙視しているだけである。そして、このやり方によってのみ、人間を本来の存在仕方に導くことができるのだ。
(つづく)