甘口辛口

聖書的アナーキズム(1)

2006/9/12(火) 午後 0:48
新聞の書評欄を読んでいたら「釜ケ崎と福音」という本が面白そうだった。評者の斉藤美奈子がこの本に書かれているイエス像の新しさについて、次のような紹介文を書いていたからだ。

 高い人格と学識を持ちながら、貧しい人たちとともに歩んだ高貴な人物、なんてとんでもない。彼はとことん貧しく、へりくだりを示す余裕などこれっぽっちもなく、「誕生から死まで、底辺の底辺をはいずりまわるようにして生きた」。「食い意地の張った酒飲み」で、ヘブライ語も読めない無学の徒で、「大工」と訳されている職業の実態は石の塊をブロックに切り分けていく「石切」で、それは当時の最底辺の仕事だった。(朝日新聞「書評欄」)

そこで早速インターネット経由でこの本を注文したが、品切れで手に入らなかった。先日、ふと思い出して再度この本を注文したら、今度は増刷になった本が送付されてきた。

斉藤美奈子は触れていなかったけれども、著者の本田哲郎神父は役所の貧困者対策について厳しい批判を展開しており、私はこれを読んでいて「聖書的アナーキズム」という言葉を思い浮かべた。アナーキズムという言葉が不適当なら、解放神学でも左派キリスト教でもいい、とにかく著者は現代日本社会の総体にたいしてNOの態度を表明しているのである。彼は臆することなく明言する。

もし、自分の国が制度として弱者の切り捨てをしていたり、武力介入による他国への侵略や経 済搾取をしているなら、わたしたちは距離をおいたところからそれを批判するだけではなく、それをやめさせる闘いに、具体的に参加することが大事であり、それこそが神の望まれる平和を実現させる効果的かつ唯一の方法でもあるのです(「釜ケ崎と福音」)

私は本田神父のこうした社会批判にも興味を感じたが、一番面白いと思ったのは、「自然と陽のあたるところを選んで」生きてきて、日本フランシスコ会の頂点である「管区長」まで登り詰めた自身の過去を「よい子症候群」にとりつかれていたと率直に告白している部分だった。

彼は、子供の時分から教会に行って神父から「大きくなったら何になりたい?」と尋ねられると、相手がどう答えれば喜ぶか知っていて、「神父さんになりたい」と答えるような人間だったと告白する。神父という看板を背負った者が、ここまで率直にものをいうのは珍しいことなのである。
(つづく)