甘口辛口

安倍晋三式「美しい国」

2006/9/23(土) 午後 5:20
他人を脅迫することの大好きな右翼が、時に宝塚歌劇並の美辞麗句を愛用するのは興味あることだ。タカ派の安倍晋三が、「美しい国」などという星菫派風の言葉を振り回しているのを見ると妙にくすぐったくなるのである。

安倍晋三は、「戦前の日本は美しい国だったが、戦後の日本は醜い国になった、だから日本を戦前のように美しい国にしなければならぬ」という使命感に燃えているらしい。しかし、彼は戦後に生まれて、戦前の日本など何一つ知らないはずである。とすれば、彼は日本の近現代史を研究して、戦前の日本が美しい国だったという結論に達したのだろうか。だが、彼は今回の総裁選挙で「歴史認識」について問われると、「その問題は歴史家にまかせたい」と逃げているのだ。

彼は歴史の勉強など嫌いだし、近現代史の本をまともに読んだことなんか一度もないのである。だからこそ、歴史教科書の記述が自虐史観に基づいていると決めつけ、教科書糾弾の先頭に立つこともできたのだ。安倍晋三は、いわゆる自虐史観教科書と皇国史観教科書を読み比べて見たことがあるだろうか。どちらが学問的であるか、一目瞭然ではないか。皇国史観本は、歴史書ではなく、「日本良い国・強い国」を鼓吹する物語本に過ぎないのだ。

安倍晋三は、男女協働社会にも反対している。これについても、彼に戦前の日本女性と戦後の日本女性のあり方を比較してみることを勧めたい。戦前の日本女性は忍従の生活を強いられ、その傾向は今もなおつづいている。にもかかわらず、安倍晋三はフェミニズムに反発し、彼女らの地位を戦前のレベルまで引き戻そうとしている。

中高校生が皇国史観で洗脳され、日本は世界一すごい国だと思いこんだり、女性が家庭に戻って専業主婦になり、やさしい母・貞淑な妻になったりすれば、日本は「美しい国」になったといえるのか。

安倍晋三に限らず、日本の右翼は、「戦前=美しい国、戦後=醜い国」という固定観念に縛られ、日本をなんとかして戦前の状態に押し戻したいと思っている。中西輝政は皇族を国民の目から隠し、戦前のように神秘的な存在にしておけば皇室の威厳が保てると考えているし、右翼のやりかたは、万事この調子なのだ。防衛庁は「軍事上の機密」を楯にして情報公開を拒み、外務省は「外交上の秘密」を口実にマスコミを寄せ付けない、こうして重要な問題をすべて厚い秘密の壁で隠しておいて、思うように国を動かそうと右翼の政治家は目論んでいるのである。

安倍晋三は、アメリカのCIAのような内閣直属の情報機関を設置するつもりらしい。政府がこうした組織を使って情報を収集し、それを国家機密として一般に公開しないなら、国民は「知らしめず、依らしむべし」という家畜のような存在になり、国民が国に逆らうことはなくなるだろう。だが、そうなると、間違いなく権力による不正の横行する「醜い国」になる。

タカ派知事の石原慎太郎は、国旗国歌の強制は憲法に違反するという地裁判決が出た後も、「学校に規律を取り戻すには、統一行動が必要」だという理由で、教職員や生徒への締め付けをつづけると公言している。安倍晋三も教育基本法を改正して、生徒に自由と規律を教えるという。自由と規律のうち力点が「規律」に置かれていることは明らかである。

石原慎太郎も安倍晋三も、生徒達がロボットのように一糸乱れず行動をしていればご機嫌なのである。それほど「統一行動」が好きなら、国籍を早く北朝鮮に移すことだ。そして金正日と共にマスゲームや軍隊の行進を眺めていたら、さぞ気持ちがよくなるだろう。その昔、「太陽の季節」を書いて、若者の反逆を謳歌した石原が、今や規律を説いて若者を抑えにかかる。その厚顔や、恐るべし。

戦前と戦後の両方を生きた人間からすると、「戦前=美しい国」などというのは、真っ赤なウソなのだ。戦前に飛び交っていたのは権力者側からする自国賛美の、「美しい形容詞」ばかりだった。安倍晋三に政治を任せたら、日本について表現する形容詞が美しくなるだけなのである。