甘口辛口

麻生太郎のインテリ談義

2006/10/14(土) 午後 7:39
たまには「世界」「論座」というようなリベラル系の月刊誌を読みたいと思って書店に行っても、並んでいるのは「諸君」「正論」といったような右翼系の雑誌ばかりだ。「論座」は数年前に近所にある店で見かけて買ってきたことがある。だが、今や市内の書店をくまなく回っても「論座」を、手に入れることは不可能になっている。

そこで週刊誌を買って帰るということになるが、この週刊誌なるものは魅惑的な見出しを掲げながら中身は手薄というケースばかりで、読者をして羊頭を掲げて狗肉を売る式のペテンに引っかかったような気にさせることが多いのだ。従って、週刊誌を買ってきても、その一部分を読んだだけで、あとは放り出してしまうことが増えてくる。

放り出されて枕頭に重ねられた週刊誌の一冊をふと取り上げたら、「いまの世の中、右翼のほうがインテリじゃないか」と題する麻生太郎の独白が載っていた。ちょっと面白そうなので、寝ころんで読んで見た。

彼はインターネットで行われた総裁選模擬選挙で一位になったことについて、「これまで自分はババァ芸者にもてるくらいだと思っていた」と嬉しそうに語っている。麻生太郎は、こういったざっくばらんな調子で「独白」を続けるのだが、肝心の右翼の方がインテリだという根拠についてはあまり説得力のある話になっていない。

彼があげている唯一の根拠は、自民党の若い右派議員が、「えらい理屈が通った」話をするようになったということだけなのだ。別に右翼の理論家の論文を読んだ上での感想ではないのである。

麻生太郎には悪いけれども、右翼のいうことに「えらい理屈が通っている」ことは、まずありえない。右翼は人類普遍の法よりも、自国の利益や伝統を優先させる。彼らは人類普遍の論理など存在しないと言いながら、自説を展開するのに普遍的な論理に依らざるを得ない。ここに彼らの混乱がある。

そこで、彼らはシタデに出たら相手になめられるから、中国・韓国に対してあくまで強腰で臨めと、まるで講談本に出てくるような理屈を振り回す。安倍晋三は首相になるまでは、こうした講談本的論理に基づいて、相手がやって来ないなら、こちらから出かけて行けばよいという意見があるが、「それでは朝貢外交になる」と強く反対していたのだった。

右翼の歴史観と来たら、まさに滑稽の一語に尽きるのである。
彼らは慰安婦問題や、南京虐殺問題を認めると、不愉快になる。そこで、そんなことは、韓国や中国のでっち上げだと頭から否認する。そして、万世一系の天皇に統治された日本の「国体」を世界に比類のないものと誇り、日本は昔から清らかな美しい国だったと自賛する。

彼らはこういう自分たちにとって気持ちのいい歴史、自分たちが愉快になるような歴史を、学校で教えるべきだと考える。つまり、「愉快史観」「ご機嫌史観」を普及させようとしているのである。こんな彼らの主張が、どうして「えらい理屈が通った」すばらしい理論なのだろうか。

もっとも、一流大学を出た秀才たちが自民党の議員になり、右翼のイデオローグになっている事実は認めなければならない。「一番主義」で生きてきた彼らは、どこに行っても、そしていつでも、一番でいないと気が済まない。だから、彼らは、左翼が盛んな時代にはそこで勝者になるためにマルキストになり、右翼が盛んになれば、くるりと方向転換して右翼の理論家になるのだ。

このタイプの秀才には、戦前に徳富蘇峰があり、戦後には清水幾太郎がいたが、新保守主義の時代に入ってから、この種の秀才が増えてきたのである。だから、この記事の表題は、「いまの世の中、右翼のほうがオポチュニストではないか」と改めるほうが正しいのだ。