甘口辛口

神とのつきあい方

2006/10/25(水) 午後 2:57
確か、国木田独歩だったと思うけれども、彼にはこんなエピソードがある。
キリスト教に入信した彼は、「信者として一番大事なのは神に祈ることだ」と聞かされて、一生懸命祈ろうとした。だが、どうしても祈ることができない。そこで、「祈れない、祈れない」と焦れて泣き出したというのである。

国木田独歩が祈れなかった理由は、よく分かるような気がするのだ。彼の神観念が間違っていたのである。神に関して間違ったイメージを持っていたから、彼は祈ることが出来なかったのだ。そして、こうした間違った神観念は、だいたいにおいて日本人の多くが共有するところのものなのである。

内村鑑三の自伝を読むと、子供の頃の彼は神仏に敬意を表さなければならぬという脅迫観念にとりつかれ、神社であろうがお稲荷さんであろうが、社(やしろ)らしきものにぶつかると片っ端から頭を下げて回ったという。彼がやたらに神仏を礼拝したのは、そうすればバチが当たらないし、神仏の加護にあずかることが出来ると考えたからだった。

金持ちが神社・仏閣に莫大な寄進をしたり、庶民が賽銭箱になけなしの銅貨を投げ込んだりするのも、同様の心事から来ている。彼らは、神仏に石灯籠や現金を献上すれば、先方が喜んでその人間に御利益を与えてくれると信じこんでいる。つまり、神や仏も人間同様に「個人感情」を持ち、自分に奉仕するものに依怙贔屓の愛を注いでくれると考えているのだ。

中国で盛んだった道教によれば、各戸には竈神というのがいて、年に一度、その家の善行悪行を洗いざらい報告するために天帝のところに出かけて行くことになっていた。そこで信者たちは、竈神にいい報告をして貰うために紙に書かれた竈神の口に水飴をたっぷり塗りつけるのである。神を買収するというハッキリした意図をもって、竈神の好む飴を与えるのだ。日本人が神前に供物を捧げるのも、瞑々のうちに神を買収しようとする意図があるからだ。

神仏の機嫌をとれば、相手が自分だけに福を与えてくれるという信仰は、神仏を人間化してとらえるだけでなく、むしろ人間以下の卑小な存在に格下げしてとらえている。まともな人間なら、機嫌をとられたからといって、相手を特別待遇するようなことはないのである。

宮本武蔵は、「(神仏を)敬して、たのまず」といった。彼は、内心で神仏など信じていなかったのだ。国木田独歩が、死に臨んですら、神に祈ることが出来なかったのは、神に関する日本的なイメージを捨て去ることが出来なかったからだった。少しでも思考力のある人間だったら、この手の「依怙贔屓する神」に叩頭できるはずはない。国木田が祈ることの出来なかったのは、キリスト教の神ではなく、日本的な神に対してなのだ。

実験的精神に富んだ福沢諭吉は、最初からこの種の日本的神を信じていなかった。彼は兄から神社のお札を粗末に扱ったと叱責され、「バチが当たるぞ」と脅されたので、本当にバチが当たるかどうか調べるためにお札を足で踏んづけてみた。さらに、彼は神社のご神体がいかなるものか確かめるために、本殿に忍び込み、ご神体が石ころにすぎないことを突き止めている。

福沢の聡明は、神観念に毒されない健康な精神から来ている。彼は、殺傷沙汰の絶えない幕末の京阪地区を旅しなければならなくなったとき、刀を捨てて丸腰で出かけた。身を守るためにと刀を帯することが、かえって自らを危うくすることを洞察していたからだ。

では、篤信の信仰者は、いかなる神観念を抱いているのだろうか。

本当の信者は、神に身勝手な要求を突きつけるのではなく、己の欲求を無にして神意に従って生きようとする。どんな不運にみまわれても、それが神の意志、神の計らいなら、甘んじて受け入れようとするのである。彼らは、自分が置かれている状況を、いっさいの個人的希望を捨てて無私の目で眺める。すると、そこに「事実唯真」の世界が――ありのままの無飾の現実が、見えてくるのだ。

神が、世界をかくあらしめている。とすれば、神の意志は「事実唯真」の世界のなかにあり、ありのままの無飾の現実が神そのものを映しているのである。人間は神の意志を映す世界のなかにあって、隣人を愛し、人類のために働かなければならない。

カーライルは、世界は神の衣装であるといったけれども、唯物論者の私に言わせれば、世界そのものが神なのだ。神は絵に描かれているよう人間の形をしているのではない。神が人間の形をして天上にあるとしたら、三角形の神は三角形をして宙に漂っていることになる。

統一教会との関係が取りざたされている安倍晋三首相は、新興宗教「慧光塾」の代表にも、「あなたのパワーで北朝鮮を負かしていただきたい」と懇願していたという。安倍晋三式タカ派思想のルーツが、こんなところにあったとは、何となく情けなくなる話である。

安倍晋三は、「美しい日本」だの何だのと美辞麗句で自己陶酔にふける代わりに、一度自分の宗教観を洗い直してみることだ。何時までも怪しげな新興宗教に肩入れしていると、右翼の知的レベルはこの程度のものかと相手にされなくなる。早く統一教会、慧光塾と手を切り、さらには愚かしい「依怙贔屓する神」信仰からも抜け出して、まともな常識を備えた大人として出直すことだ。