甘口辛口

眠い少年殺人犯(2)

2006/11/8(水) 午後 3:38
自分が奈良に戻ったことを知った少年は、とにかく元の場所に戻ろうと京都行きの地下鉄に乗った。彼が烏丸御池駅に舞い戻った時には、時間は午後4時になっていた。「北を目指す」という思いつきに固執していた彼は、御池駅を出ると方位磁石を手に北の方向に歩きはじめた。

日が暮れてきた。少年は自動販売機でジュースを買ったり、コンビニで雑誌の立ち読みをしたりしながら、あてどもない北方行をつづける。夜になると公園を探して野宿をした。彼が覚えているのは、このあたりまでだった。疲労と空腹で、頭が朦朧として来て、自分がどういうルートを通っているのか、分からなくなったのである。

家を飛び出してから二日後の6月22日には、少年は叡山電車の修学院駅近くの公園で夜を明かしている。だが、夜の公園の寒さは、想像以上だった。彼はロックされていない軽自動車があるのを見つけ、その後部座席で横になってみたけれども、やはり寒さのため寝付くことが出来なかった。

金はもうほとんど無くなっていた。何処かの家に忍び込んで飢えを充たそうという考えが浮かんだ。すると、彼はその日がサッカーのW杯で日本対ブラジル戦のある日だということを思い出した。急に元気が出てきた。家に侵入したら、早速サッカーの試合を見よう(彼は勘違いしていた。試合が行われるのは翌日だったのである)。

少年が目星をつけた家に忍び込んだのは、午前3時頃だった。彼はまず警察に通報されないように電話線を切り、それから冷蔵庫を開けて食べ物を物色した。賞味期限が切れたものがあったのでゴミ箱に捨ててから、牛乳とサイダーを飲んだ。

ひとまず空腹が充たされたので、彼はサッカーの試合を見ようとテレビの前のソファーに寝ころんだ。そして、そこで、彼はまたもや寝込んでしまうのだ。彼は午前3時から午前7時半まで、約4時間を見知らぬ家のソファーで寝ていた。

「誰?」
その家の女性の声で目を覚まされた少年は、泡を食って玄関を飛び出した。だが、何となくその家のことが気になって、侵入した家の様子を見に戻ってきたところを警察官に捕まるのだ。下鴨署に連行された少年は、そこで継母と弟妹が焼死したことを知らされ、体をふるわせて泣きじゃくった――

こうした少年の行動をたどってみると、肝心の場面で彼が常に寝過ごしていることに気づくのだが、これは一体、どうしてなのだろうか。

まず、考えられるのは、少年が慢性的な睡眠不足に陥っていたことである。彼の睡眠時間は、平均して日に4、5時間で、テスト前ともなると2、3時間に過ぎなかった。少年は、「毎日、塾や英会話教室から帰ってくると、父に午後7時半頃から翌日の零時まで勉強させられた」と語っている。途中で眠くなってウトウトすると、父親が厚い英語の辞書を投げつけてきたり、冷たい茶を浴びせかけたりした。

何時も監視されている育ち盛りの中学生が、自宅を飛び出して自由になるやいなや、暇を見つけて直ぐに寝込むのは当然の生理現象かもしれない。しかし、父を殺すことを予定していた夜に、二回とも寝過ごしたという事実の裏には、生理現象だけでは解釈出来ない別の理由があるように思う。数時間後に放火殺人を計画している人間が、そんなに簡単に眠りこけるはずはないのである。

子供が暴力をふるう親に反抗したり、さらに親を殺そうとしたりするのは、その親が滑稽な弱点をさらけ出したり、許すべからざる不正義を見せつけたりした時である。つまり親の側が見苦しい弱みを見せて子供の侮蔑感情を刺激したときに、子供は親への恐怖感に打ち勝って公然と反乱を起こすのだ。

少年は父から殴る蹴るの暴行を受けながら、根っこのところで親の行動を是認していた。彼は将来父親のような医師になりたいと思って、その夢をクラスの文集に書き込んでいる。医者になるためには、父の指示通りに勉強し、父の期待しているような成績を取らなければならない。そう感じていた彼には、父に反旗を翻す大義名分がなかったのである。

少年は父を失望させないためにウソをつき、成績表を改竄したりカンニングをした。激怒した父に、「今度ウソをついたら殺すからな」と宣告されていたから、英語の点数のことでウソをついた少年は、本当に父に殺されるかもしれないと思いこんだのだ。彼は自分がそうされても仕方のない人間だと思ったけれども、まだ死にたくはなかった。彼は、父に決定的な敵意を持っていたわけではなかった。死を免れるために、やむを得ず、父を殺す決意を固めたのである。

草薙厚子は、裁判所に提出された精神鑑定書を読み、そこに記載された「広汎性発達障害」という病名によって少年の行動を解釈しようとしている。彼女は精神医学の専門家の言葉を引用する。

「父親の『殺すぞ』という言葉を少年が文字どおりに受け取った可能性があり、犯行の着想に拍車をかけたかもしれません。その場合、これは『字義どおり性』と呼ばれる広汎性発達障害の特徴のひとつです」

この事件の最大の謎というべきものは、父親が不在と知りながら、自宅に放火した理由であるが、これについても草薙は精神医学者の説を引用して説明する。

医学者の言葉。
「計画をいったん実行し始めると、当初の目的と状況が異なっているにもかかわらず、とにかく計画を実行することだけに注意が向き、制止が効きにくくなる。こういった傾向も、この障害をもつ少年が混乱すると陥りやすい行動です」
             
私は草薙や精神医の説に異を唱える積もりはない。けれども、虚心に少年の行動を眺めると、次のような二つの仮説が頭に浮かんでくるのだ。

仮説その1。
寝過ごして父の殺害に失敗した少年は、万事投げやりになってしまい、とりとめのない行動に出るようになった。家を飛び出せば、金が必要であることを承知していながら、貯金の三千円を持ち出しただけだったし、廊下のサラダ油に火をつけておきながら、後も見ずに駅に向かって歩き出している。その後は、眠くなれば至るところで寝込むという調子で、父殺しに失敗したショックの大きさがうかがわれる。

仮説その2。
精神分析の理論を援用すると、少年の行動のすべては、実は無意識の願望を実現した結果にほかならない。彼の内部では、父の死を願う気持ちと、父を殺してはならないという気持ちが争っていた。意識の表層でこの矛盾した二つの気持ちが争っている間に、意識の深層の方は、問題解決の手段をちゃんと考え出していたのである。保護者懇談日の前に、彼が自宅に火をつけ放火犯として逮捕されれば、父に殺される恐れはなくなるという解決策。

そして当日に父が病院に泊まって帰宅しないと継母に告げられると、彼は無意識がふだんから温めていた別の願望に基づいて動き始めた。父と離婚して実家に戻っている生母と実の妹を呼び寄せ、一緒に暮らすという願望である。そこで彼は、サラダ油を階段を中心にたっぷりと撒いた。二階で寝ている継母と弟妹を焼き殺すためだった。

少年が至るところでぐっすり寝込んだのは、無意識に抱いていた願望を実行したからではないだろうか。彼は一切合切をリセットして、最初からやり直したと考えていたと告白している。その希望は、彼の行った放火殺人によって、すべて実現されたように見えるのだ。