甘口辛口

イジメの病理(1)

2006/11/16(木) 午後 1:28
徴兵され、短期間の訓練を経て、各地の部隊に配属されてみると、日本の軍隊がいかに低俗であるか身にしみて分かった。内務班で起居する兵隊のすべてが悪いのではない。本当に悪質なのは数名の古兵に過ぎないのだが、こういう兵隊が新兵をいじめたり、自堕落な行動をするのをほかの兵隊が黙って放置している点がまずいのである。

つまり「程度の悪い」兵隊の行動を誰も制止しようとしないから、内務班全体の空気が低俗になるのだ。いじめが横行する教室も同じで、40人生徒がいても、積極的に弱い者いじめをする生徒は数人でしかない。だが、それを残りの級友が傍観しているため、教室の空気が悪くなる。仲間のいじめ行動を放置しているクラスは堕落し、一歩クラスに足を踏み入れたら直ぐにその臭いを感じ取れるほど低俗な学級になってしまう。そして、こうした低俗なクラスが日本の学校には、数多く存在するのだ。

韓国でも子供の自殺が社会問題になっていて、自殺する生徒数を人口割りにしてみると日本の4倍にもなるそうである。韓国に比べて、日本の自殺数が小規模にとどまっているのは、いじめ実行者以外の多数生徒が傍観的態度をとり、積極的にいじめに参加しないからではなかろうか。クラス全員がいじめに参加したら、自殺者の数はもっと増えるはずである。

(韓国人は、その時々に全員一致になる傾向がある。韓国で在任中に権勢をふるっていた大統領が、退任後に逮捕されるという例が続いたのも、このためだろう)

日本の子供たちの多くは、アクティブ・メンバーが弱い者いじめをするのを面白がって見てはいても、自分でいじめに加わることはない。日本の兵隊たちが、新兵いじめを面白がって眺めていても、自分で積極的にそれに参加することがなかったのと同様である。

では、軍隊や学級で多くのメンバーが傍観者にまわり、アクティブ・メンバーの行き過ぎを制止しようとしないのはなぜだろうか。──多数の側に所属していないと安心できないという日本人独特の習性のためなのだ。

いじめを傍観しているのは、多数の側につくためなのである。内心でいじめの光景を見るに堪えないと思っても、下手に被害者を弁護すれば、少数派に転落してしまうから黙っている。日本の学校に通う生徒たちが一番恐れているのは、仲間の輪からこぼれ落ちてしまうことなのである。

生徒たちが、多数に帰属すべく努力するのは、多数が正しいと思っているからではない。多少の疑問を感じても、孤立することを恐れて本能的に多数の側についてしまうのだ。これはいじめを積極的に行っているアクティブ・メンバーにも共通する心理で、彼らは多数の意志を代弁しているつもりで「うざい生徒」や自己中心的な仲間を攻撃する。彼らは級友のために行動していると思っているから、つねに自信満々なのである。従って、いじめのアクティブ・メンバーを「熱い多数派」、傍観するクラスメートを「生ぬるい多数派」と定義してもいいかもしれない。

いろいろ問題を含みながら、わが国の自民党がどの先進国にも類例がないほど長期政権を維持しているのも、常に多数の側についていたいという日本人の習性によることが大きい。わが日本国は、「生ぬるい多数派」によって形成された国家なのである。

ことあれば多数に隷属してしまう日本人の悪癖を直すためには、一人一人が人類共通の公理というべき普遍的なモラル=ヒューマニズムを身につける必要がある。いま学校に必要なのは、愛国心教育ではなく、ヒューマニズムに基づく教育なのだ。

こういう観点から少し学校現場を眺めてみよう。(つづく)