甘口辛口

映画「死ぬまでにしたい10のこと」

2006/12/6(水) 午後 6:56
録画したまま二年間も放置しておいたビデオテープを棚から取り出して、少しずつ見ている。昨夜は、「死ぬまでにしたい10のこと」というカナダ・スペインの合作映画を見た。題名だけを見たときには、てっきりエンタテインメント映画だろうと思ったのだが、内容はそんなものではなかった。余命2〜3ヶ月と宣告された若い母親を主人公にしたシリアスな映画だったのである。

最初に、若い母親アンが雨の中で目を閉じて立っている場面が出てくる。彼女はずぶぬれになりながら、足の裏にぬかるむ大地を感じたり、まだ読んでない本のことを考えている。つまり、これは余命幾ばくもない彼女が、現在只今生きていること、そして、この人生に未練を多く残していることを全身で感じている場面なのである。

よそ目には、これまでのアンの人生は幸福とはいえなかった。両親の夫婦仲は悪く、父は目下刑務所に入っている。アンはこの父を愛していたのに、父は娘にハガキ一枚よこしてくれない。

アンは生まれて初めてキスしたボーイフレンドと結婚し、17歳で最初の子供を出産している。夫のドンが失業中なので、アンは母親の家の裏庭に置かせてもらったトレーラーハウスで暮らし、掃除婦をして一家の生計を支えている。

そんなアンの家にも朗報が届いた。夫の就職が決まりそうなのだ。希望に燃えてキッチンで仕事をしているときに、彼女は激痛に襲われて倒れ、運び込まれた病院で末期ガンの宣告を受けるのである。

彼女は病気のことを誰にも告げなかった。
そして、ひそかに残された期間をいかに過ごすべきか計画を立てはじめた。彼女は紙に「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出し、順々に実行に取りかかるのである。この10項目の中には、年来の夢だった爪にマニキュアをすることなども書き込まれている。

アンは、まず二人の娘の誕生日に贈る祝いの言葉をテープに吹き込んだ。それぞれの娘が18歳になるまで、毎年、新しい内容の言葉が聞けるように、一人につき十数本分のテープを用意したのである。彼女は夫にも母にもテープを残した。この映画の原名は「My life without me」となっている。アンは、自分の死後にも人生が続くように計画を立てたのだ。

それからアンは、母から父がいる刑務所を聞き出して面会に出かける(映画では、父が何の罪を犯したのか明らかにされていない)。父は娘を前にして、率直に妻との関係について語る。

──「相手の望むように生きようと思っても、それが出来ない人間もいるんだよ」
──「愛していながら、相手を幸せに出来ないこともある」

日本映画なら、アンが家族に見せる細やかな配慮を描くことだけで映画を終わりにするところである。一時評判になった韓国映画にも、死期を知った写真屋が機械音痴の父親のためにビデオの使い方などを書き残す場面があった。父親にそうした心遣いを見せながら、彼は愛していた女性に別れを告げることなくひっそりと死んでいる。日本映画も、韓国映画も、こういうところを妙に禁欲的に描く癖があるのだ。

しかしアンは、「死ぬまでにしたい10のこと」の中に、夫以外の男性と関係を持つことをあげている。高校時代のボーイフレンドと早すぎる結婚をした彼女には、もっと成熟した大人同士の恋愛を体験したいという夢があったのだった。アンは夫を愛していた。が、もうひとつ人間として信じ切れない面があって、娘に遺すテープも、夫ではなく主治医に預けている。

アンはコインランドリーで、リーという中年男と知り合い、恋に落ちる。そして、彼女は初めてこれまで知らなかったような深い喜びを知るのだ。彼女は最後に、リーにあてて一本のテープを吹き込んでいる。彼女の遺した多くのテープのうちで、最も哀切を極めたテープである。このなかで彼女は繰り返し、二人のための時間があまりにもみじかかったことを嘆いている。

映画の最後の場面で、アンは一種のあきらめに到達する。病床で彼女は、手伝いに来た近所の女性の指示に従って、夫と二人の娘が明るく立ち働くのをスダレ越しに眺める。彼女はそれを眺めながら、「私のいない人生の一こま」とつぶやき、もう「失われた人生に未練はない」と自分に言い聞かせる──「私は死ぬのだから」「死んでしまえば、もう何も感じなくなるのだから」と。

この映画の特徴は、死期の迫ったアンが、遺された家族のために努力すると同時に、自分の個人的な欲望のためにも時間を裂いていることである。この映画を見ていると、家族のための愛と自分自身への愛は決して矛盾していない。いや、矛盾しないばかりか、両者が併存することで、アンの抱く家族への愛も、リーへの愛も、一層純粋なものに感じられてくるのだ。

日本映画も、変に遠慮しないで、ここまで踏み込んで描かないと大人の鑑賞に耐える作品にはならないのではないか。日本のテレビも映画も、もう一皮むける必要があるのではなかろうか。