甘口辛口

ドラマになった「氷点」(1)

2006/12/17(日) 午後 5:07

(写真は三浦綾子)

三浦綾子の「氷点」は、これまでどうしても読み終えることの出来ない作品の一つだった。

私は面白そうな本には、すぐに食指をのばす野次馬人間だが、ベストセラーのトップに浮上するような本は敬遠して読まないことにしている。本が馬鹿売れに売れるというのは、これまで本を読まなかった「一般人」も喜んでその本を買うからなのだ。そして一般の人々が喜んで本を買うというのは、そのなかに通俗的な価値観がたっぷり詰め込まれているからだ。

毎日聞き飽きているような世俗的な価値観に従って書かれた本を、わざわざ買って読む必要などないのである。私は別に「一般人」を軽蔑しているわけではない。けれども、犬はワンワン式の型にはまった世間的思考法には心底うんざりしているのだ。

しかし「氷点」には、ベストセラーになる前から関心を持っていた。
この作品は、1000万円懸賞小説の当選作であるという話題性のほかに、人間はどこまで他者を許しうるかという倫理的な問題をテーマにしていると聞かされていたからだ。わが子を殺された夫婦が、犯人の娘を引き取って養女にするところから物語は始まるらしかったが、そうだとしたら作品は確かに「許し」の問題を取り上げるに相応しい内容になるはずだった。

新聞に連載された「氷点」を何日かは努力して読んでみたが、どうしても読み続けることが出来なかった。何となく薄手に感じられる文章のせいもあったが、それより話が一向に進展しないのが苛立たしかった。辻口病院長夫妻は、なぜ犯人の娘を養女に迎えるようなことをしたのか、肝心の部分がなかなか出てこないのである。

新聞の連載が終わり、「氷点」が本になると爆発的に売れ始めた。
すると、私の勤めている高校で「氷点」をテーマにした読書会が開かれることになった。図書館係をしていた私は、これまでに読書会で生徒の希望する「ジェーン・エア」「嵐が丘」などを取り上げて来たが、正直に言ってこれら女子高校生向きののテキストを読むのはしんどかった。それでも、読書会までには、ちゃんとテキストを読み終え、教師としての義務を果たして来たのだ。

私は本屋に出かけ「氷点」を買ってきて読みはじめた。だが、この本だけは期限までに読み終えることが出来ないのである。それどころか、最初の数ページでストップしてしまって、それ以上はどうしても読めないのである。だから読書会当日は、列席の他の教師に運営を任せ、私は最後まで沈黙を守っているしかなかった。

その後も「氷点」の人気は高くなる一方で、作品は映画化され、テレビでも何度かドラマ化された。しかし、こちらはそれらを見逃していたから、院長夫妻が何故犯人の子を引き取って育てることにしたのかという当初からの疑問はいつまでも解けないままに残った。

新聞のテレビ欄で、民放の某局が今年の芸術祭参加番組として「氷点」をドラマ化したという記事を読んだときには、今度こそ、そのドラマを見て「氷点」のあらすじを掴もうと思った。「氷点」を読む気はしないものの、この作品の内容を知ることは、私の内部で一種の宿題のようになっていたのだ。

録画しておいた二夜連続のドラマを先日見たけれども、「芸術祭参加」というにしては少々お寒い内容だった。努力して見終わってから、このドラマが失敗に終わったのは、リアリティーのない原作の責任ではないかと思った。

第一に、犯人が病院長の娘を何故殺したのか、そこのところからして訳が分からないのだ。妻に死なれて、男手ひとつで赤ん坊を育てることになった犯人が、疲労から常軌を逸して衝動的に院長の娘を殺してしまったというのだが、そして逮捕された犯人は留置場で首つり自殺をしたというのだが、これほど説得力に欠けた話は聞いたことがないのだ。

私が長い間疑問にしてきた院長夫妻が何故犯人の子を育てることになったかという理由に至っては、更に説得力がなかった。院長は妻が不倫をしていると思いこみ、その妻を罰するために犯人の子を妻に育てさせることにしたというのである。

だいたい、娘を殺された院長夫人が、その娘の代わりに養女を貰うことを切望するという筋立てからして、人間の心理を無視している。実の娘を無惨に殺された母親は、病気などで子供を失った母親とは全然違う。彼女は、事故に遭わずに済んだよその娘を見れば、きっと目を背けたくなるにちがいない。よその子を貰ってきて、娘の代わりに育てようと考えるとは、到底思えない。

病院長が、妻に犯人の子を育てさせ、その子への妻の愛情が深くなったところで事実を暴露することを計画していたとしたら、この院長は病的なサディストであり、性格異常者だ。妻が男と会っている間に娘が誘拐されて殺されたのなら、そのことをおおやけにして、妻を離婚すればよいのである。妻は社会的に葬られ、二度と立ち上がることが出来なくなるのだ。

院長夫人は陽子と名付けた犯人の子を溺愛するようになるが、養女が10歳になったとき、偶然、夫の日記を読んでいっさいの事情を知ってしまう。彼女は、こうした悪辣な計画を立てた夫への怒りに燃え、彼女の方でも夫への復讐を決意するのである。

養女の陽子が犯人の娘だと知った院長夫人は、手のひらを返したように陽子をいじめ始める。この辺の描写は、日本演劇の伝統ともいえる「継子いじめ」の様式に則っていて、本の読者もドラマの視聴者もきっとハラハラしたにちがいない。

院長夫人が夫への当てつけとして陽子をいじめたなら、話は分からないこともない。だが、院長夫人は本気になって陽子をいじめている。そんなことが、果たしてありうるだろうか。

陽子は犯人の子供だというだけで、殺人には責任がないし、それに夫人はこれまでわが子同様に陽子をかわいがってきたのだ。仮に夫人に継子いじめの衝動が起きたとしても、彼女の感情は千々に乱れたろうと思う。そのへんの苦しみを描くのが本来の文学の筈で、単なる継子いじめの描写で終わらせてしまったら三文小説になってしまう。

三浦綾子は、この作品で人間は何処まで他者の罪を許しうるかという問題を提起したという。院長も院長夫人も、人を許すどころか人を憎むことに専念しているから、作者の問題意識を代弁する人物にはなり得ない。

すると、「許し」の限界を探る役割を背負わされた登場人物は、陽子ということになる。彼女は院長夫人からいくら過酷な扱いを受けても耐え続け、心の中で相手を許そうとしている。その彼女に相手を許せなくなる限界状況が出現するだろうか。そのとき彼女はどうするだろうか。
(つづく)