甘口辛口

「ハレ」型人間・「ケ」型人間(2)

2006/12/25(月) 午後 5:31
私は前回、少数派の人間でも、腹を決めてかかれば多数派の陣地を突破できると書いたが、本当のところ、話はそれほど簡単ではない。確かに、日本のような大勢順応社会でも、人はその気になればアウトサイダーとして生きて行ける。しかし、それには内面にあまたの傷を負うというマイナスを覚悟しなければならない。

退職して私は晴耕雨読の生活に入った。「ケ」型の人間にとって、晴耕雨読の生活ほど理想的な生活システムはないから、当初は大いに満足して毎日を過ごしていた。ところが、四、五年すると、「振り向けば鬼千匹」という妙な言葉が頭に浮かんできて離れないようになった。折あるごとに、この言葉が脳裏をよぎるのである。

それと同時に、戦後29年たってフィリピンのルパング島で生存の発見された小野田寛郎少尉の顔が浮かんできた。

帰国した小野田少尉が記者団に囲まれて問答を交わすところをテレビで見ていた。「潜伏中、何か楽しいことがありましたか」という質問が飛び出したとき、小野田少尉の表情がガラリと変わったのである。

彼はまるで傷口に手を突っ込まれたかのような表情になった。苦痛、嫌悪、怒り、呪詛、それらが一緒くたになった、ひん曲がったような表情になったのである。彼は、苦いものを吐き出すようにして答えた。
「楽しいことなんて、一つもありませんでした」

彼は残置諜者として部下3人と共にルパング島に残り、戦後29年の間、米軍や地元の警察と百数十回もの小競り合いを繰り返しつつ生き延びたのであった。帰国するときには部下をすべて失って、彼は一人だけになっていた。楽しいことなど一つもなかったという彼の言葉は、誇張でも何でもなかったのである。

私の場合も、晴耕雨読の生活が平穏であればあるほど、昔を振り返ると苦い想いがこみ上げて来るのである。無論、私の場合は小野田少尉のケースほど深刻ではなかった。が、私も彼と同様に、平坦な気持ちで過去を振り返ることが出来ないのだ。過去を振り返ると、苦い記憶が次々にわき起こって来て、千匹の鬼が群がり出てくるような気持ちになる。

千匹の鬼が出現するのは、現役の頃の私が省みて忸怩たる行動ばかりをして来たからだ。そして、その原因は私が「ケ」型人間として生きることを求めながら、「ハレ」型人間としても行動したからだった。私が「ケ」型人間として隠者風の生き方を徹底させていたら、周囲から無用の反発を買うこともなかった。だが、私は血気にはやって、「ケ」型人間の上に「ハレ」型人間としての生き方を重ねるようなことをしてきた結果、無数の傷を負うことになったのである。

私は世界が反権力無支配の方向に進みつつあると確信しながら、そして自分は時代の進展を静かに観望しているだけでいいと考えていながら、結局は自己満足にすぎないような「不服従行動」を繰り返して来た。バカな人間は、放っておけばいい、彼らはやがて自分のまいた種を自分で収穫することになる、と考えていながら、私は彼らと実りなき闘いを重ねてきた。

いつ頃からか、私は森鴎外を愛読するようになったが、それは鴎外が生きることを業苦と感じながら、それを誰にも感じさせないで淡々と生きて見せたからだった。彼は大学の医学部を出た後で、文学部に入り直し、学者になって一生本を読んで暮らそうと考えていた。だが、それは母峰子から拒否され、鴎外は軍医になって立身出世の道を歩むことになる。

家付き娘だった峰子は豪腕の女で、養子に貰った夫を督励して一家の経済的基盤を固めさせ、その上に長男鴎外を中心とする「栄光の森家」を構築しようと考えていた。無信仰な彼女は、主義もモラルもない女だったから、息子の鴎外のためには恥も外聞もなく「側面運動」を続けた。

巷間「森家のエゴイズム」ということが口にされている。これは鴎外の母が醸成した森家独特の計算高い気風を指している。峰子は鴎外を出世させるためとあらば、有力者の私宅を夜討ち朝駆けして歴訪することもいとわなかった。

ここに鴎外が親友の賀古鶴所に送った一通の手紙がある。九州の小倉に左遷された鴎外が、母の「側面運動」を受けて迷惑している賀古(賀古は陸軍の大ボス山県有朋の側近だった)へ送った詫び状である。

── 此頃母上つまらぬ事にて御訪問致候由お困りと存候最早世
   間も小生を小倉のものとあきらめ候へども母のみはさうは
   まゐらず又それが母のありがたき処なれば奈何ともすべか
   らずと存候──

私達はこの手紙の中に、有難迷惑な母親の行動を、そこに潜む心情ゆえに「いかんともすべからず」として耐えている鴎外の苦い表情を見ることができる。鴎外が常に行き過ぎる傾向のある母の行動を黙認して来たのは、母性愛もさることながら、陸軍医務局長として彼が門戸を張っていくためには、どうしても母の助力が必要だったからだ。

峰子には女中や馬丁を巧みに使いこなす統率力があり、吝嗇だ冷酷だと陰口をたたかれながら着実に資産を殖やしていく蓄財の才能があった。日常生活に伴う避け難い雑事雑用を、彼女程適確に処理できる者はいなかった。彼女は鴎外を卑近な現実から守る盾になってくれたのである。

鴎外は長男の於菟の訓育を含めい家事一切を峰子に委ねることによって、文壇と医学界にまたがる幅広い活動に専念できたのだった。彼は典型的な「ケ」型人間だったから、本来彼の望むような生き方をするためには、母親の支配から脱し、ライバル小池正直との終わりなき出世競争をも打ち切って、どこかの大学の教授に転身すればよかったのである。それが不可能だと決めてしまったから、鴎外は生きることを業苦と感じながら生き続けなければならなかった。

鴎外ですらそうだったとすれば、凡愚に生まれついた「ケ」型人間は甘んじて「業苦としての人生」を受け入れなければならない。

多数派である「ハレ」型人間に屈服しても苦しみがあり、抵抗しても苦しみがあるとしたら、「ケ」型人間は抵抗する方を選択すべきなのだ。過去を振り返れば苦い記憶が「鬼千匹」の状態でよみがえって来るとしても、多数派に媚びなかったという誇りは残るからだ。一つでも誇るべきものがあれば、われわれは胸を張って生きて生きて行けるのである。

妥協の生涯を送った森鴎外も、いまはの際に支配層への絶縁状とでもいうべき痛烈な遺書を残し、羽織袴に着替えて死んでいる。われわれも土壇場まで抵抗精神を捨てるべきではないのである。