甘口辛口

映画「世界残酷物語」

2007/1/18(木) 午後 2:45
昭和40年代といえば、すでに40年近い昔になるが、その頃評判になった映画に、「世界残酷物語」というイタリア映画があった。私は世評に惹かれて、この映画を見るために映画館まで足を運んだけれども、今では、その内容をすっかり忘れてしまっている。だが、たった一つだけ記憶に残っている場面がある。

アフリカでの部族間の紛争を取り上げたもので、敵対する部族の男たちをとらえて来て、その手首を片っ端から切り落とした場面が映し出されたのである。山のように積み重ねられた手首は、ちょっと見たところ手袋の山のようだったが、それらはまがうことなく切断された人間の手首だった。実際、思い出しただけでも、背筋が寒くなるような映像だったのである。

捕虜にした男たちの手首を切り落とす──これは、悪魔のように狡猾な方法なのだ。手首のない人間は最早武器を取って戦うことが出来ないし、生業につくこともできない。彼らは、相手部族が扶養しなければならないお荷物になるのである。

ルワンダでツチ族とフツ族が対立し、血なまぐさい大量虐殺事件を引き起こしてから、部族間の紛争はアフリカ全土に波及し、多くの地域で集団虐殺事件が頻発するようになった。そして、この状況は、現在にいたっても変わっていない。

集団虐殺は、アフリカの部族間対立に起因するものばかりではない。バルカン半島では民族対立による深刻な内戦が起きているし、東南アジアでも宗教問題を原因とする紛争が起きている。そして、これら地域には、品性下劣なデマゴーグがぞろぞろいて、相手への敵意を煽り立てているのである。

しかし私たちには、アフリカその他の地域のデマゴーグを嗤う資格はない。

書店で、タカ派の論客と称される人物たちの本をぱらぱらと読んだ感じでは、彼らの主張はルワンダのデマゴーグと同一レベルにあるのだった。彼らは、読者を扇動して他国への敵意をかきたてることしか考えていないのである。

店頭に並ぶ右傾雑誌に満載されているお国自慢論文も、ルワンダ式レベルを一歩も出ていない。ルワンダのフツ族は農耕部族だから農業を賛美し、ツチ族は牧畜部族だから農業を侮蔑して牧畜を賛美する。日本人が、島国日本に特有の現象を取りあげて自画自賛するのは、実は劣等感の裏返しであって、集団虐殺を繰り返しているフツ族・ツチ族と同じレベルの知能しかないからだ。

たとえばアメリカ人が、自国を賛美する雑誌を好んで読み、米国でベストセラーになる本がアメリカ人の品格やらモラルを声高に宣伝するものだったとしたら、我々はどう思うだろうか。「いい気なものだ」と彼らを物笑いのタネにするにちがいない。

デマゴーグの中でもタチの悪いのは、国民の排外意識を煽る政治家である。私はこれまで韓国政府の「太陽政策」を支持して来たが、竹島問題で韓国の世論が沸騰したとき、現韓国大統領が日本非難の先頭に立つのを見て、すっかりこの大統領が嫌いになってしまった。こういうときに世論の沈静化に努めるのが一国の指導者のなすべきことなのに、彼は人気取りのために逆のことをしたのである。

しかし、最も罪深いのは、子供たちを戦場に送り出す大人たちではなかろうか。
発達途上国では、学校教師が世論の誘導役をつとめるケースが多いらしい。NHKの衛星第一放送を見ていたら、東南アジアの某国で教員が生徒を扇動して戦線に送り出す場面を放映していた。

昨日、WOWOWで見た「イノセント・ボイス──12才の戦場」という映画は、さらに恐るべき世界を描いていた。実話に基づくというこの映画によれば、中米の小国エルサルバドルは12才の少年を徴兵して戦場に送り出しているのだ。ゲリラと長期にわたる内戦を続けている政府は、若者がゲリラ側に走ることを防ぐ目的もあって、少年が12才になると徴兵し、軍隊の中に囲い込んでいるのである。

映画の主人公はチャバという11才の少年で、徴兵年齢が近づいたので戦々恐々としている。その彼が残虐な政府軍と戦うために、何人かの友達と語らってゲリラ側に走るのだ。けれども、政府軍にとらえられて友達は処刑される。辛くも脱出したチャバは、徴兵されることを避けるためにアメリカに移住することを決意する・・・・・。

大人が学校で平和の尊さを教える代わりに、平和を守るためには戦わなければならぬと詭弁を弄し、年端もいかない少年たちを戦場に送り込んだとしたら、これ以上に罪深い行為はないのではなかろうか。そもそも、「平和のために武器を取って戦う」という言葉ほど、矛盾した言葉はないのである。