甘口辛口

悲観論者の処世術(2)

2007/1/22(月) 午後 3:23
不本意な社会で生きるときに、たいていの人間が採用する処世術は、現状を俯瞰的に眺めることである。世の中の動きを傍観者として冷静に眺め、いたずらに感情を動かさないように心がけるのだ。人は自分が是認できない状況の中で生きているときには、自然に傍観者的な目でまわりを見ているから、この傾向を延長していけばいいと単純に決めてしまうのである。

これは、無感覚な人間になれば、苦しみも悲哀も感じないで済む筈だという発想から来る処世術である。だがこうした方法が成功したという話を聞いたことはない。

森鴎外は明治の日本を、自由のない強権的な世界だと見ていた。知的活動にたずさわる人間が日本で生きるのは、あたかも潜水夫が深海で働くようなものだと考えていたのだ。潜水夫が巨大な水圧に耐えて行動しなければならないように、知的な人間が日本で活動するためには、暗くて重い社会圧に耐えねばならない──。

日本は目下「普請中」なのだから耐えて行くしかないと思い決めていた鴎外も、レジグナティオン(諦観)が限界に達すると一切を投げ出して引退したくなった。そうしたときに、彼は「耐え続ける人間」を作品の中に造形して自分を救出しようとしたのだった。自分の模範とする人間類型を造形し、これを自己教育のモデルにすることによって立ち直ろうとしたのである。

鴎外作品の「鶏」に登場する石田少佐は、彼の理想とする「情操不動」を体現した人物であった。石田は、身辺に何が起きても感情を動かさない。独身の石田は、飯炊きの婆やと乗馬の世話をする別当を雇い入れていたが、彼らはそれぞれ石田を欺いて小さな不正を働いている。だが、石田はそれらすべてを承知していながら、冷眼鉄面、少しも動揺することがないのだ。

現実の鴎外は、九州の小倉にいた頃、婆やが米を持ち出して自宅に運ぶのを防ぐために、米びつに鍵をかけて押入にしまっておくようなことをしている。だが、作中の石田少佐は、別当や婆やの行動を冷然と眺めているだけなのだ。つまり、鴎外は婆やの不正を知ってあれこれ気をもむ現実の自分を否定し、そうした自分が見習うべき超然モデルとして石田なる人物を創作したのである。

鴎外が自画像として読者の前に提示する登場人物は、たいてい、こうして嵩上げされた「上げ底」人間だった。だが、こんな子供だましの方法が成功するはずはないし、原理的な観点から言っても、冷眼鉄面路線は直ぐに行き詰まる構造になっているのである。

どんなに沈着でタフな人間でも、事に臨んで感情を動かさずにはいない。その僅かに動く感情すらなくしてしまったら、個人の内面は不毛の荒野になり、最早、人を行動に導く基盤そのものが失われてしまう。特に、作家が「情操不動」のニヒリストになったら、その瞬間から創作活動が不可能になる。作家は、ニヒリストを描くことが出来る。しかし、自分がニヒリストになってしまったらおしまいなのだ。

そこで、鴎外が次に打ち出した「現実に耐えるための方法」は、自己の感情を抹殺するのではなく、これを「あそび」の層に移して骨抜きにすることだった。鴎外は、子供の頃から勉強も仕事もすべてを「あそび」の気持ちでやってきたと打ち明ける。そして、自分にとって「あそび」の気持ちは「与えられた事実」であり、先天的な資質なのだから、その時々の感情を「あそび」化して展開するのはたやすいことだと弁明するのである。彼は、どんな不愉快な現実も、「あそび」によって軽く受け流し得ることは、自分にとって既に実証済みの事実なのだPRする。

しかし鴎外の生涯を知る私たちには、彼の採用した冷眼鉄面戦術も、「あそび」戦術も、彼が吹聴するほど有効だったとは信じられないのだ。彼は癒しがたい虚無感に取り付かれた作家だった。「自分は生まれてくるより、生まれてこない方がよかった」という感覚を最後まで持ち続けた鴎外は、どういう路線を選んで行動しようと現実厭悪の感情を払拭することができなかったのである。

鴎外はニヒリズムの克服に努めたが、その根を断つことが出来なかった。問題は、ここにあるのである。

では、石川三四郎の「宇宙市民」路線はどうだったろうか。
鴎外と石川の生涯を比較すれば、問題は二人がニヒリズムの克服に成功したかどうかということであって、小手先の戦術論などではなかったことが明らかになる。

中野重治の表現を借りれば、鴎外は文学者として源実朝以来最高の官位まで上り詰めたにもかかわらず、明治社会の権力構造に対する怒りを死に至るまで抱き続けた。彼は死に臨んで天皇政府によって下付されるいかなる恩典も拒否することを宣言している。そして、自分は無位無冠の石見国住人として死ぬという呪詛に近いような遺書を残している。

石川三四郎は、才能、学識、門地、あらゆる点で鴎外に及ばなかったが、その死に際は円光に包まれたように静かで美しかった。明治・大正・昭和のファシズム体制と戦い続けた彼は、後輩のアナーキストたちからも悪罵を浴びせられ、その生涯は失意の連続だったはずである。しかし彼は世を恨むことなく、人類の未来を信じて、静かに死んでいったのである。

石川の「安心」を支えたのは、土に根を下ろした「土民生活」だった。ジャガイモは、トマトや茄子のように枝になるもと思いこんでいたほど農業に無知だった彼は、第一次世界大戦中にフランスで百姓仕事を覚え、帰国して土を耕して生きる土民生活を開始した。エドワード・カーペンターの影響を受け、石川は文明が生み出した都市は醜いが、自然の産物はすべて美しいという確信を持つようになり、自然の造化に参与するために農業者になったのである。

石川は、百姓仕事を宇宙の創造活動に参画する行為だと考えていた。宇宙は「美」以外の何者も生み出さないから、農業をすることも美を生み出す芸術活動に他ならない。

社会は都市のように醜悪なものを生み出しはするが、大局的に見れば社会集団も宇宙による美的創造活動の産物であり、社会は生成発展してやがては美しい「作品」になるのである。

更に言えば、人間の営為のすべてが、本来、美を創造する芸術活動なのである。
だから、人は焦らず、怒らず、百姓仕事によって宇宙の活動に参画しながら、現世の動きを眺め、楽しんで行けばよい。我々は、社会悪に対する戦いを進めながら、同時に芸術作品としての社会を鑑賞的態度で賞味すべきなのだ。

こうした考えを持って生きていたら、どんなに悲観的な状況のなかにあっても、人は絶望することはない。成る程、日本はアジア諸国への侵略を繰り返し、堕落のどん底にあるけれども、自分は一時的に日本国に寄寓しているに過ぎず、真に帰属しているのは宇宙であり、本籍は宇宙市民たることにあるのだ。何を悲観することがあろうか。(つづく)