甘口辛口

生活の三分割

2007/1/27(土) 午前 10:33
80才になったのを区切りに、「完全引退」を実行した。といっても、それまで所属していた会を退会したり、冠婚葬祭や隣組に関する仕事を家内に任せ、年賀状などを出さなくなっただけだから、年を取れば誰でもそうなって行くことを一足早く実行したに過ぎない。

それでも、以前より自由時間が増えたことは確かで、おかげでほぼ三等分されていた私の生活時間の各部分に配当される時間が少しずつ増えた。三等分された生活とは、テレビ・パソコン・本という三つのものに向けられた生活を意味している。

私の一日は、朝、新聞のテレビ欄を見て面白そうな番組を予約録画することから始まる。予約録画するのは、最初、テレビで放映される洋画だけだった。そのうちに洋画以外の番組も、パソコンのHDDに取り込むようになり、やがて、一番簡単に予約録画できるのはDVDレコーダーだということが分かったので、この機器も録画に利用することになった。これらの装置を使って録画した映像は、いまでは相当な量になり、これを全部見るには朝夕ぶっ続けでTVに向かっていても一ヶ月はかかりそうである。

──退職後、パソコンを利用するようになったけれども、一番驚いたのは複雑微妙な装置だと思い込んでいたパソコンが、実はいくつかの既製のパーツから出来ていて、これらを寄せ集めれば、ずぶのシロウトでもパソコンを組み立てられると知ったことだった。基本的には、パソコンを組み立てるのは、プラモデルを組み立てるのと何ら変わりないのである。

機械音痴の私なども、Windows98時代には、暇さえあればパソコンの蓋を開けて内部をいじっていたくらいだ。だが、今ではそんなこともなくなり、パソコンを単なる実用品として使うようになっている。パソコンは、電卓と同じ日常的な道具になったのだ。

──私は若い頃から本を読むのが好きな人間で、「完全引退」を実行したのも読書の時間を増やすためだった。ところが、ここが何とも皮肉で悲しいところなのだが、本を読むと、テレビやパソコンに向かっている時よりもずっと目が疲れるのだ。マンガならいいかもしれないと、試みにマンガを読んでみたら、これが活字本を読むより目が痛むのである。

特に小さな活字が難物で、小さな活字で印刷された河出書房新社の「ドストエフスキー全集」や、中央公論社版の「大岡昇平全集」などは、もう全く読めなくなって、書架でホコリをかぶっている。その他の蔵書の半分も同じ理由で読めなくなった。では、活字が大きければいいかというと、活字の大きな本は、文字が不思議とほっそりして、インキの色も薄いのである。大きな活字で濃く印刷した本があれば、一日中本を読んでいても飽きないのだが、世の中はままならぬものである。

さて、この生活三分割のうち、テレビ関連では録画ファイルが、書物関連では手持ちの蔵書が、膨大な数量になっている。そこへ持ってきて、今や、パソコン関連でも能力に余る課題を背負い込もうとしているのだ。

近々、Windows Vistaが発売されることになり、私も一応これを購入する予定でいるけれども、マイクロソフト社の販売戦術には倦厭の情を覚え始めているところなので、使用するOSをそろそろ、Linuxに切り替えようと思案し始めているのである。

昨日、書店に行ったら「日経Linux」という雑誌が目についたので買って来た。ところが、どの記事を読んでも、チンプンカンプンで何の事を書いてあるのか見当もつかない。どうやら、Linuxではアプリケーションの切り替えをアイコンをクリックしてやるのではなく、昔のDos−V機のように指定の命令文を打ち込んで切り替えるらしい。そうだとすれば、改めて命令用語を覚える必要が出てくる。

私はテレビ関連・書物関連に加えて、パソコン関連にもより多くの時間を配当しなければならなくなるのである。私は余計なものを切り捨てて、単純にして簡明な生活を心がけて生きてきたのに、これでは自縄自縛ではないか。

いや、待てよと思った。自分では読み切れない本や、自分で視聴しきれない録画映像を抱え込み、Windowsに加えてLinuxを利用する技術を身につけようとするのは、二宮尊徳の提唱する「余譲」という作用では無かろうか。二宮尊徳は言っている、植物が自分のためにだけ生きるのではなく、次世代のために種子を残すように、人間も世に何か残して死んで行くべきだ、と。私が自分では消化しきれない本や録画映像を抱え込んでいるのも、子孫に遺す種子としてかもしれない。Linuxの利用技術にしても同じである。

あるいは、こういうふうにも考えられる。私が自分の能力を超えた資料や課題で頭をいっぱいにしているのは、目を社会から反らし、自分の穴の中にこもるためではないか、と。すると、これは「悲観論者の処世術」にほかならなくなる。

老齢の私は、「終わりを待つ」存在である。どうやら、終わりがくるまで、退屈している暇はなさそうである。