甘口辛口

古書店から全集を買う

2007/2/4(日) 午後 8:36
最近、新聞広告を見ていて欲しくなったのは、岩波書店で刊行を開始した「フロイト全集」だった。私は、邦訳されたフロイトの著作を一冊読んだだけだが、読後に彼の本をもっと読みたいと思った。この時の思いが「潜在意識」に残っていて、それが新聞広告を見て急によみがえってきたのである。

しかし、自分の年齢を考えると、全集が完結するまで生きられるだろうかという疑いが生じた。すると、「フロイト全集」を購入しようとする気持ちが、自然に消えてしまった。

こんなふうに、購入を断念する本や全集が増えてきた半面、老残の身だからこそ、あえて購入に踏み切った本も少なくない。特に、インターネットで古本の目録などを眺めていると、今のうちに読んでおかないと、という気になることが多いのだ。「今のうちに」とは死ぬ前に、という意味である。

前に書いたけれども、私は坂口安吾の全集を欲しいと思いながら、これまで手を出さないでいた。アドルム中毒以後の彼の作品には雑なものが多いように思われ、購入に踏み切れなかったのだ。それが、古書店の目録を見て比較的安価に入手可能だと分かると、(それなら注文してみるか)という気になった。

やがて本が到着したので、敬遠していた後期作品から読んでみる。すると、これがなかなか面白いのである。後期の作品は「手抜きだらけの雑な作品」なのではなくて、安吾の得意とするファルス(笑劇)なのであった。

これに味をしめて岩波書店版の大岡昇平全集(正確には「大岡昇平集」)18冊を3万円で注文する。届いた本を早速読んでみると、少しも目を痛めることなく、すらすら読める。既に所持している中央公論社版の全集は二段組みで、小さ活字を詰めて印刷してあるのだが、岩波版の方は一段組みで文字が大きい上に文字と文字の前後左右にゆとりを取ってあるのだ。これなら、中公版では読み通すことが出来ず、途中で投げ出したままになっている「レイテ戦記」も、最後まで読み通すことが出来るだろう・・・・。

調子に乗って、今度は「伊藤整全集」24冊を、これも3万円で注文した。小林秀雄の評論は、アクロバットのような文体で書かれていて読むのに難渋するが、伊藤整の文章には水の流れるような平淡な感じがあって読みやすい。小林秀雄は伊藤整などより深い世界をかいま見せてくれるけれども、「これからオレの説き聞かせる芸術の秘奥を理解しようと思ったら、まずお前さんの持っている常識を捨てることだな」というような彼のポーズが気になるのだ。

小林秀雄は、骨董の玄人がご託宣を下すように語るけれども、伊藤整は、教師が生徒を相手にポイントを解説するような調子を崩さない。だが、このやさしく紳士的な伊藤整が、息子の話によると、わが子を階段から蹴落とすようなこともするらしい。そういう激しさを持っていたから、彼はあれだけ膨大な作品を遺すこともできたのだ。

私は中野重治とも、小林秀雄とも違う、伊藤整の人柄に興味を持ち、彼の死後に全集が出ることになった時、購入するつもりで広告を見たら、値段が一冊7000円になっていた。これでは、とても手が出ないと私は購入を諦めていたのだ。

その高価な伊藤整全集が、3万円で購入できるというのだから驚いて注文したら、全集(新潮社発行)の一冊あたりの単価は2000円なのだった。これなら古本としても驚くほど安いという訳ではない。しかも、本を開いてみると、普通の版型の本を二段組みにして小さな活字で印刷してある。(あーア)と思った。現物を見ないで購入するインターネットの問題点が、ここにあるのだ。

全集の中から「作家論」の巻を開いて、森鴎外の部を読んでみる。伊藤整は鴎外の「渋江抽斉」について分かりやすい解説をしている。続いて、「鳴海仙吉」を読んだら、作家論を読んだときより目が疲れない。休み休み読んで行けば、小説のジャンルなら伊藤整全集も全部読み通せそうである。

私が作家や思想家の全集を読むのは、文学作品や思想そのものに関心があるからではなかった。作家や思想家が、どんなことを考え、どんな風に生きたかという点にこちら興味があり、それを知る必要上、全集を手に入れて読んでいるのだ。つまり、私が蒐集してきた個人全集の著者たちは、いずれも人間に対する興味をそれぞれの面で刺激してくれるありがたい存在なのである。

家内は段ボールの箱に入って、どさっ、どさっと運ばれてくる本を眺めて、
「その年になっても、まだ本を読む気なのねえ」
と呆れたような顔をしている。さよう、人間に対する興味が尽きない限り、私は本を読みつづけるのである。