甘口辛口

退職してから──その1

2007/2/5(月) 午後 3:54

(写真は畑の中の「不生庵」)

      はじめに
(今年は「団塊の世代」が退職を迎える年だという。この人たちの
参考になるかもしれないと考えて、私の経験を何回かに分けて紹介
することにした。内容は一部HPの記事と重複している)

 定年退職の日が来た時、私は家内た頼んで頭髪を電気バリカンで
刈り上げて丸坊主にしてもらい、「不生庵」と呼んでいる畑の中の
草庵に移った。そして独居自炊の生活を始めた。

 こう書くと、思い立って出家でもしたのかと間違えられそうだが、
そんな訳ではない。頭を丸刈りにしたのは、純粋に合理的な理由か
らであった。私は以前から暑いときには丸坊主になり、寒くなった
ら頭髪を伸ばせばよいと考えていた。しかし教員をやっている間は
そういう訳にもいかず、世間並の髪形にしていたのだが、今はもう
そんな気配りもいらないというので日ごろの考えを実行に移したま
でだ。

 「不生庵」という草庵にしても同様で、これは自分でそう呼んで
いるだけで、実質はありきたりの住宅でしかない。
家内などは、「どうしてこれが不生庵なのかねえ。不精者が住む家
だからなのかねえ」と未だに首をひねっている。

 ただの住宅にこうした奇妙な名前をつけたのは、この家で日頃見
失っている「不生の仏心」(江戸時代の禅僧盤珪の言葉)を回復し
たかったからにすぎない。「不生庵」は退職二年前に将来に備えて
建てておいた家である。たかが高校教貞の身で自宅のはかに二軒目
の家を持つのは賛沢だと思われるかもしれない。だが、地方都市に
暮らして質素に生きていたら、セカンドハウスを建てるくらいの金
は無理なく溜まるのである。

宿願とも言ってよい昔からの私の希望は、退職したら少なくとも
数年間妻子と別居し、単身で労働と思索の生活を送りたいという点
にあった。だから、私は退職時の挨拶状に些か気負った調子で.次
のように書いたのである。

「バラモン教徒は、「家住期」のつぎを「林任期」としております。
今後は畑の中の草庵に隠棲して、もう一勉強する所存です。「林住
期」の日々を徹底して簡素に平静に生きていきたいと考えておりま
す」

 「労働と思索」の生活を描いた文学作品に森鴎外の訳した「冬の
王」がある。これは、白樺派を中心とする大正期の青年達に大きな
影響を与えた作品で、主人公のエルリングは逞しい両肩の上に哲学
者のような頭を乗せた下宿屋の召し使いである。彼はデンマークの
長い冬がくると丘の上の樅の木に囲まれた小屋に閉じこもって思索
の生活に入る。

小屋の中には思想関係の本の外に自家製の望遠鏡・地球儀などが備
えてある。夏の五カ月を労働者として過ごし、冬の七カ月を思索す
る孤独な王者として世界に君臨するのである。

もしエルリングが妻子持ちのドメスチックな男として描かれていたら、
大正青年を魅了した一種厳粛な感じは失われてしまったにちがいな
い。私は学生時代に、親しい友人と年を取ったら「冬の王」のような
生活をしてみようと語り合っていた。だから、退職後の「第二の人生」
をまず一人になることから始めたいという気持ちは動かなかったの
である。

私が一人で「不生庵」に移ることについて別に家族の反対はなかっ
た。セカンドハウスと言っても自宅と同じ地区内にあり、クルマや
バイクを使えば五分で到着できるところにあるからだった。それに
家内は、私が隠遁志向を強め始めた中年以降から代理で世間に顔を
出すことが多く「戸主」不在の状況に慣れていた。地元に友人が多
くてクリスチャンとして毎週教会にも通っている家内にとっては、
私の不在はむしろ好ましいことかもしれなかった。
(つづく)