甘口辛口

退職してから──その2

2007/2/6(火) 午後 0:11

 問題があるとすれば、家計の方だった。
年金生活者が二軒の家を持ち、別居生活を椎持していくなどとい
うことが果たして可能だろうか。しかも子供達の中には未だ大学に
通っている男の子がいて毎月その方に仕送りをしなければならない
のである。

 私の退職金・年金は、同僚たちに比べて少なかった。長い病気の
ために皆より出発が十年余遅れ、私が長野県の高校に就職したのは
30歳を過ぎてからだった。従って、その分、リタイア後に充当さ
れる原資が乏しいのである。

ここに朝日新聞の朝刊に掲載された私の退職金に関する記事がある
あるので引用してみよう。同紙の経済欄には、読者から退職金関連
の投書を募るコラムが連載されていて、これに応募したら採用され
たのだ。

           「私の退職金」
 二十代は結核との闘いに明け暮れしました。無残な青春でした。
闘病十年余の後に肺の摘出手術を受けて病気を治し、三十歳を過ぎ
て公立高校の教員になりました。そのころ「老子」を読んで感激し
、以後これを枕頭(ちんとう)の書としました。

 定年退職までの三十年間の大半を自宅から通勤可能な学校に勤務
しました。単調な生活でしたが、読書とバードウォッチング以外に
道楽のない私は別に不満だとも思いませんでした。「戸を出ずして
天下を知り、窓を窺(うかが)わずして天道を見る」です。

四十歳を過ぎて親戚(しんせき)から譲り受けた十アールあまりの
休耕田を畑にして耕すようになりました。同僚はマイカーを手に入
れ、海外旅行を楽しんでいましたが、こちらは自転車通勤(後にミ
ニバイク)で、休日には農業を続けました。

こんなふうにしていれば、薄給の教師といえども金は自然に残りま
す。それで、在職中に畑の一角に十五年以上かけて、セカンドハウ
スを完成させました。八六年三月に退職して退職金は手取り約二千
万円。いろんな金融機関が誘いにきました。

わずらわしかったので互助年金とこれまで付き合いの深かった銀行
の定期預金に二分割し、金のことはすっかり頭から消してしまいま
した。

 金はあった方がいいのですが、財テクに熱中したり再就職を焦っ
たりして平穏な生活を壊してしまってはなんにもなりません。幸福
は、平穏な日常の中にあるのですから。(以下略)

             ─────

私は家内に年金の全額を渡し、自分は在職中から積み立てていた
小口の預金通帳を持って「不生庵」に移った。私には、自分の生活
レベルをどこまで低下させうるかということについての実験的な興
味があり、これが家計への不安を脇へ押しのけたのだ。(つづく)