甘口辛口

退職してから──その5

2007/2/14(水) 午後 4:34
畝が出来上がると、梅の木の下の堆肥を一輪車に乗せて、畝と畝の
間の溝に運びいれる。堆肥を溝の中に平均に行き渡らせて、足で踏
み付けたあと、化学肥料を撒き、土をかぶせる。これで下ごしらえ
は完了する。この簡単な作業を確実に実行できるようになるまでに
、私は四〜五年の日曜百姓体験を要した。

野菜作りには、蒔付け・成長管理・収穫という三っの段階がある。
ところが作業面から見ると、蒔付け・収穫の二段階はたいしたこと
はなくて、最も労力を要するのは蒔付け前の下ごしらえと除
草なのだ。下ごしらえのポイントといえば、畝の間にたくさんの堆
肥を踏み込んでやることに尽きる。このことに気づくためには誰で
も多少の歳月がかかる。

そして一度気づけば、それから以後は平均的な収量をあげられるよ
うになるのだ。結局、成否の鍵は堆肥の投入量にあるのだから、
野菜作りをしようと思ったら、本当は鶏を飼うか,農家から厩肥・藁
を買うかして、一定量の堆肥を用意しなければならない。

だが、そこまでするのは日曜百姓の手に余る。梅の木の下に積んで
ある堆肥は、去年一年間に敷地内に生じた有機物(トウモロコシ・
大豆等の茎、落ち葉、草、生ごみ)の全量を一物もあまさず集積し
たものだった。しかし、やはり堆肥の絶対量は不足している。その
不足した分だけ、専業農家に比べて収量が落ちるのである。

一時間程すると、ジャガイモ畑の下ごしらえは終わった。私はス
モモの下の耕運機をそのままにして家の中に入り、水を張っておい
た風呂に点火する。これが庭続きの畑を持つことの長所なのである。
機械や農具を畑に放り出しておいて、別の仕事に移ることが出来る
のだ。

日曜百姓をするにも何をするにも、まず手近なところに活動のため
の空間を確保することが先決条件ではないだろうか。

日曜大工がブームだったころ、私も電動工具を購入して机や書架
を作った。そのかたわら、テレビで日曜大工入門というような番組
をいくつか見たが、自身の体験と照らし合わせて一番核心をついて
いると思われる意見は、日曜大工をするには、まず、そのための空
間を用意せよというものだった。

大工仕事を素人がする場合、なにより肝要なのは時間をかけてゆっ
くり作業をすることなのだ。急いて仕上げようとするから仕損じる


日曜一日で製品を完成し、早く「形」を見届けようとして、やっつ
け仕事をしてしまう。そういう気持ちを押さえて、寸法合わせに半日
、板を切ったり削ったりするのに半日、それから何日か日をおいて
、これを組み立てるのに半日というふうに数日にまたがって仕事を
すると、それなりにいい物が出来るのだ。

農作業は終わった。まだ日の高いうちに風呂に入る。

入浴後、早めに夕食をすませて二階に上がる。二階の窓から眺め
ると、畑の中央に太めの通路を一本通したため、昨日までと違って
畑に目鼻立がつき整然としてきたように見える。

この通路を通したお陰で畑への行き帰りがスムースになる。それを身
体が感じ取って、身体感覚が「秩序立ってきた」と判断したのだ。
人間は一個のエネルギー体として、どんな場所を見ても、そこで
自由に動き回れるかどうかイメージによる予行演習を試みる。そし
て動きやすければ、そこに秩序と美を感じ、物が散らかっていたり
障害物があったりして動き憎いと思うと、そこを乱雑だと感じて眉
をしかめるのだ。

森鴎外の実生活が整然として乱れなかったのは、身の回りを眺める
にあたって、イメージによる予行演習をする癖を身につけていた
からだった。彼は目の前の乱雑な光景を眺め、頭の中でそれを筋道の立
った合理的な絵図に作り替える。彼の作品が明快で歯切れがよいの
は、物を見る目の背後にこうした合理的な絵図を置いていたからだ
った。

私は畑を眺めながら、生物進化の過程で、諦観型の生物が植物に、
非諦観型の生物が動物になったのではないかという何時もの妄想を
思い浮かべた。

植物は与えられた場所を動かず、「運を天に任せる」生き方をして
いる。彼らは、こうした諦観と引き替えに、与えられた小宇宙の総体
を残りなく受容することから来る「存在快」というようなものを手に
入れる。どんな植物を見ても、存在すること自体を快とするような
直截なたたずまいを見せている。

これとは反対に、動物のあるものは、その発達の極致で自分が動物で
あることをやり切れなく感じはじめる。彼らは遠い始源に戻って植物
の諦観を回復したいと願うようになる。

釈迦も老子も、東洋の思想家の多くは植物の諦観を理想としていた。
フロイトに至っては更に大きく跳躍した。彼は人間のリビドーにつ
いて考察を深めた揚げ句、「生」本能の袋小路にうんざりして、人
には「生」本能のほかに無機物に戻ることを希求する「死」本能が
あると言い出したのだ。彼は生を厭悪して、石や岩の持つ安定と静
寂の中に安らぎたいと思ったのである。

釈迦や老子の後を追うようになって以来、テレビで列島改造論を説
く新潟出身の政治家を見るたびに吐き気を感じた。時の権力に擦り
寄り、その気に入りそうなことをマスコミに発表する学者・評論家
を目にした時の反応も同じだった。

社会の表流を動かしているのは、あさましい人間達かもしれない。
しかしそんなもので世界を動かす力強い底流は変わりはしないの
だ。この世の人間は、時の流れに従ったり逆らったりする。そうい
う表層の動きとは別に、人も無意識のうちに真実に従って動いてい
る。

すべての人間は感情的存在であり、時代の動きに煽られて右往
左往するが、調整作用がどこかで働いて、結局人は正道・常道に戻
るのだ。人間の意識には世界を動かす底流と同じものが流れており
、これが我々の心を本来の布置に戻すのである。


私は地面にかがんで、草むしりをすることを愛しているけれども、
そうしたとき、私は自分の内部の暗がりを見ているのだった。私には、
生命の本体も、宇宙の始源も、解脱に至る方程式も分からない。し
かし何も分からないままに、地面にかがんでいると、おのずと普遍
的なものと重なっているような安らぎを感じはじめるのだ。

大地にひざまずく時に私達の姿勢は最も低くなり、この時に頭上の
空は最もひろがって普遍者と個別者の関係が明らかになる。可能
と不可能、明と時のはざまで、膝をついて待つことが人間に与えら
れた宿命かもしれない。

私は草をむしりながら、「四時行われ百物生ず、天何をか言わん
や」という論語の一節を口ずさむ。そして、ひたすら待ちつずける
。その姿勢が一番楽なのだから、待つ時間がいくら長くても苦にな
らないのだ、このまま死んだとしても悔いは残らないのである。
(つづく)