甘口辛口

永井荷風のひとり暮らし(その2)

2007/2/23(金) 午後 1:52
永井荷風を有島武郎と比較するとき、最初に目につくのは、荷風が青春の入り口で挫折を体験していることではなかろうか。彼は、父親の命で当時最難関の学校だった第一高等学校を受験したが失敗し、編入学した外国語学校も中退して、大学卒の学歴を持たずに世に出て行くことになった。有島武郎も学習院の級友が東大や京都大に進む中で、彼一人だけ札幌農学校に入学するという変則なコースを歩んでいる。だが、新渡戸稲造を校長とする札幌農学校は国立大学並みの高い評価を受けていたから、彼は学歴の点で卑下する必要はなかった。

受験に失敗して旧制中学卒業の学歴しか持たないと云うことに、荷風がかなり傷ついていただろうことは想像できる。彼は些細なことにも屈辱感を抱くプライドの高い男だったから、浪人して再起をはかるという方法を選ばなかったし、私立大学の文科に入学するという道も選ばなかった。彼は進学を拒否して、まるで居直るようにして日陰の世界にはいっていくのである。

永井荷風のその後の生活といえば、落語家の朝寝坊むらくの弟子になって席亭に出入りするかと思うと、習作の原稿を持参して広津柳浪の門に入ったり、歌舞伎座の作者見習いになって拍子木を入れる稽古をするというふうだった。

作家に弟子入りするに当たっても、当時人気の尾崎紅葉などを選ばないで、社会の暗黒面を描いた作家広津柳浪の門を叩いたところにも、荷風の「日陰者志向」が見て取れる。

日清戦争の勝利に酔っていた明治30年代のはじめ、青年の多くは立身出世して新興国家日本の中枢に参画することを夢見ていた。若者にとっては、それが共通の「明るい未来」図だったのである。

有島武郎は、明治の日本が偽善に充ちた「白く塗られた墓」だと考えていた。日本の未来は明るいように見えるけれども、その明るさは偽光でしかない、だからこそ彼は使命感に燃えて、本当の意味で明るい日本を建設するために自分は努力しなければならないと考えていたのだった。彼も明治の日本に背を向けていたが、それは向日的な意識に基づく晴朗なものだった。

しかし永井荷風は、日本が明るい未来を目指しているのなら、自分はその反対に日本社会の日陰の部分や暗部で生きてやろうと考えたのだ。有島武郎が向日的な意識で20代を過ごしたとしたら、永井荷風は「拗ね者意識」で同じ時期を過ごしたのである。

やがて、彼は本腰を入れて文学の勉強をするようになったが、ここでも彼が模範にしたのは社会の底辺を描いたゾラだった。英訳本で作品を読んですっかりゾラに心酔した荷風は、精力的に「ゾライズム」の作品を書き始める。文芸雑誌に彼の作品が載るようになり、荷風の名を冠した単行本(小説集や翻訳書)も相次いで出版されはじめた。作家の卵として彼の名は出版界に登録されることになったのだ。

しかし、荷風の父親は、小説家などを「正業」とは認めなかった。
彼は息子をアメリカに送り込み、経済や法律の勉強をさせ、荷風を役人か銀行員にしようと目論んでいた。永井荷風も一応その線で行動し、渡米2年後には日本公使館に勤務し、その後、正金銀行ニューヨーク支店に就職している。

28歳になった荷風は、正金銀行リヨン支店に転勤する。しかし彼は一年とたたないうちに銀行を辞め、自由な身になってフランスでの生活を満喫した後に日本に帰ってくる。そして帰国半月後には、早くも「あめりか物語」を博文館から出版して文壇の注目を集めるのである。

それからの荷風はとんとん拍子だった。翌年には、「ふらんす物語」「新帰朝者日記」を出版し、朝日新聞に連載小説「冷笑」を載せ、その次の年には慶応大学の文学部教授に招聘されている。荷風、31歳のときだった。

洋行以前には、日陰の世界に身を置き、歌舞伎座で拍子木を打っていたような拗ね者が、今や人気随一の新進作家になり、加えて大学教授の肩書きを持ち、西園寺公望首相の「雨声会」に招待されるまでになったのだ。だが、この時期に、彼を再び日陰の世界に引き戻すような事件が起きたとされる。

森鴎外を生涯神のように敬慕しつづけた永井荷風は、折あるごとに鴎外邸をおとずれて鴎外の話を聞いていた。ある日、彼は鴎外の家で大逆事件の弁護人をしている人物から、幸徳秋水以下多数の被告が冤罪であることを告げられる。政府は、無政府主義を鎮圧するために無罪の被告らを死刑にしようとしているというのだ。

この話に衝撃を受けた荷風は、数日後に路上で大逆事件の被告らが箱馬車の載せられて裁判所に運ばれて行くところを目撃する。彼が思い出したのは、ドレフュース事件に激しく抗議したゾラのことだった。ゾラは、当時、フランス人の憎悪の的になって裁判にかけられているドレフュースが冤罪であることを確信し、社会全体を敵に回してドレフュース擁護の戦いを続けたのだった。

永井荷風は、自分を恥じないではいられなかった。自分もゾラのように大逆事件の被告らを擁護する文章を書くべきなのだ。だが、日本はフランスとは違う。彼が幸徳秋水らの被告を弁護したら、社会的に葬られるだけでなく、自分も投獄されることになりかねない。それを思うと、どうしてもペンを取る気にはなれない。

永井荷風は、不当な裁判に抗議する勇気がない自分を確認した瞬間に、以後自分は社会に背を向けて戯作者として生きて行くしかないと決意したと書いている。この彼の告白が、どの程度真実か分からない。だが、大逆事件問題が彼の日陰者意識を強化する契機になり、以後の彼の独身者としての生涯に道を開いたことは確かだと思われる。
(つづく)