甘口辛口

永井荷風のひとり暮らし(その4)

2007/2/27(火) 午後 4:01

(写真は「断腸亭日乗」)

有島武郎と永井荷風を、表世界と裏世界との関係で比較してみよう。有島武郎は、子供の頃から表世界でのスターだった。彼は小学生時代に皇太子の学友に選ばれ、週に一回吹き上げ御苑に参上している。そして一年志願の兵役を終えた後に、皇太子の相談役として宮中にはいるように勧誘され、有力政治家の秘書になる話なども持ち込まれていた。有島にその気があれば、彼は将来、侍従長を経て宮内大臣になる可能性が大だったのである。

有島の前には官界・政界のほかに内村鑑三の後継者という道も開かれていた。事実、内村鑑三は有島を彼の指導する独立教会の次期リーダーに予定していたのだった。しかし、清教徒的モラルを固く守って周囲の信頼を集めていた有島武郎は、内面にもう一つの顔を持っていた。この世の規範から解放されたローファーとしての顔である。

有島の注釈によれば、「ローファー(放浪者)とは怠けもののこと」であり、「約束の出来ない人間、誓うことをしない人間だ」ということになるが、彼は謹直な日常を保つ一方で、裏世界に出てローファーとして一生を送りたいと夢見ていたのだ。彼の心はいつもこの表裏二つの極の間を揺れ動いていた。よく言われるように「或る女」の葉子は、作者自身の分身にほかならなかったのである。

永井荷風には、有島のような迷いはなかった。彼は第一高等学校の入試に失敗して以来、終始一貫、裏の世界を志向し続け、これ以外の世界に関心を持ったことは一度もなかったように見える。

彼は日陰者の世界には、陽の当たる表世界では失われてしまった美と真実があると考えていた。娼婦的なのはむしろ良家の主婦たちであり、売笑婦の方がかえって貞節だというのである。

しかし彼は本当にそう考えていただろうか。

私は荷風の「おかめ笹」という作品を最も愛していて、今度も再読してみたけれども、彼は陽の当たる上流の世界を眺めると同じ目で、日陰に生きる女たちを見ている。この作品は日本画壇の長老一家を中心とする上流の社会と、売笑を業とする女たちの「苦界」とを、この二つの世界の仲介者ともいうべき鵜崎巨石という貧乏画家の目を通して同時平行的に描いている。

鵜崎巨石は画壇の長老の私宅に内弟子として住み込んで修行したものの、才能のないため芽が出ず、師匠一家の執事役を引き受けている中年男だ。彼はいつも師匠の長男翰が引き起こす乱行の後始末で苦労していた。翰が妊娠させたり、暴行したりした女たちの面倒を見ているうちに、彼は段々と苦界の消息に通じていくのである。

翰は親の愛情を親の欠点のように考えて、それにつけ込んでいく道楽息子だが、その翰をめぐる女たちも、それぞれの思惑で動いていて、格別の美点があるわけではない。彼女らは男の口約束を信じて裏切られることを繰り返して来たので、多少条件が悪くても実(じつ)のありそうな男を見つけると、それに頼ろうとして忠実に仕えるのである。彼女らが貞節な女に見えたとしても、それは結局打算からでている。

小心翼々たる中年男の鵜崎巨石が、最後に待合いのオーナーに納まって、目出度し目出度しの終幕を迎える。これも、つまるところ日陰の女たちの打算が、何の取り柄もない彼を「旦那」に押し上げた為だった。

永井荷風は、表世界と裏世界を同じ冷笑的な目で見ていたにもかかわらず、日陰の世界だけを肯定する従来の立場を変えなかった。彼は一度選び取った視点を変えようとしない。若い頃の自分に目をかけてくれた森鴎外を徳とした荷風は、年ごとに鴎外への敬慕の念を深め、鴎外を死に至るまで神のように仰ぎ続けるのだ。

教授の職を辞し、マスコミとも距離を置いて接触するようになった彼は、完璧に近いまで自由の身になった。もうイヤなことは何もしなくていいのである。彼は偏奇館に万感の書を集め、読書に疲れると狭斜のちまたに足を運んで淫楽にふけった。「わが愛するのは読書と淫楽のみ」と常々いっていたような荷風好みの生活を展開したのだ。

だが、個人感情の赴くままに好きなことだけをする生活は、生の実感をもたらさない。毎日がとりとめもなく過ぎて行き、自己感が保たれないのだ。自分のためだけにした行動は、心に何も残さないのである。

永井荷風の合理主義は、個人主義的な生活を実現するための手段だった。具体的には、「読書と淫楽」のための時間と金を捻出するための方法だったのである。合理主義はその内部にストイックな意志とそれに基づく生活システムを含み、生活が無際限に広がっていくことにブレーキをかける。「女郎買いの拾い草鞋」という言葉があるけれども、女郎を買うためには落ちている草鞋を拾うほどの節倹に努めなければならないのだ。

合理主義的ストイシズムによって実現した個人主義的自由の世界も、そのままでは充実感をもたらしてくれない。昼間偏奇館でお気に入りの本を読み、夜は売笑窟やカフェーに出かけて女と遊ぶ。彼は本を読んでいるとき以外は、体を売る女たちと毒にも薬にもならない無駄話をしているときにだけ、くつろぐことが出来たが、後から振り返ってみるとそれらは何の痕跡も残していない。

完全な自由の中に、真の喜びのないことを実感した荷風は、自然に気ままな生活に筋を一本通す意志的な作業を開始したのだった。日記を書き始めたのである。拘束のない日常を無拘束のまま放っておけば収拾がつかなくなる。生活のすべての細部を一本の筋に連なる系列にまとめあげること、その全体を集約する筋として「断腸亭日乗」なる和本を綴って行くこと、これが彼の開発した蘇生術であった。

荷風の生活が次第に、幾何学的な端正なものになっていった。晴れた日にはこうもり傘を手に下町一帯を歩き回る。そのため、彼の顔は日焼けして文士というより労働者のような顔になった。散歩中、感興を呼ぶものを見つけると、その場でそれをメモしたりスケッチにしたりする。それから馴染みの飲食店に入って食事をする。

この食事にも規則性があって、同じ席に座り、同じものを注文するのが常だった。松本哉の本には、次のような一節がある。

──<ひとり暮らしの荷風は外食することが多かったが、際立った特徴があった。荷風に限らず老人特有の「無精」だったのかもしれないが、いつでも同じものを注文するのである。
 
もっとも有名な例は、最晩年、市川の自宅に近い食堂「大黒家」でのカツ井と日本酒だ。毎日毎日そればっかり。最晩年のことで、食事は一日一回だったというから、その徹底ぶりは鬼気迫るものがあった。最後の日も清酒一本にカツ井を食べ、深夜、胃潰瘍の吐血でその米粒を吐き出した姿で死んでいたくらいだ>


食事を済ませ、帰宅した荷風は、メモ帳を取り出して、それを見ながら日記を書いた。特別あつらえの上質の紙を綴じて和本仕立てにして、これに極細の毛筆で書いて行くのである。こうした日記を死の前日まで42年間、一日も欠かさず書き続けたというから、ただごとではない。彼の後半生は、まるで日記を書くためにあるかのごとくだったのである。

永井荷風は、こうして書きつづった「断腸亭日乗」を折あるごとに取り出して読み返し、手を入れていた。ここにも生活の枠を広げまいとする彼の配慮が見える。彼は新しい作品を次々に発表していくというタイプではなかった。新作に着手することを控え、旧作を読み返すことを好んだ作家だった。荷風にとっては、日記を書くのも、旧作を読み返すのも、自己を確認し、おのれの生を玩味する方法だったのである。

永井荷風の生活から我々が学ぶ点があるとしたら、次のようなことではあるまいか。ひとり暮らしには生活全体を収斂する一本の基軸が必要であり、この基軸を維持するにはストイックな意志が必要とされるということ、これである。