甘口辛口

禅僧になったアメリカ人

2007/3/8(木) 午後 5:34

(写真は、トーマス・カーシュナー)

先日、テレビに登場したアメリカ人禅僧の言葉が記憶に残っている。

NHKの囲碁番組を見たあとで、それに続く宗教番組を見ていたら、トーマス・カーシュナーという禅僧が出てきたのだ。もう大分古いことなので、放送の内容を細部まで覚えていないけれども、トーマス・カーシュナーというのは長身で筋骨質の体をした禅僧とは思えないような男だった。父親は医者で大学教授、兄弟5人のうちの次男坊ということだった。

禅に興味を持ったのは高三の頃で、鈴木大拙の禅入門書やヘリゲルの「弓と禅」を読んで、本格的に禅の勉強をする決心を固めたという。それで、高校を出ると来日して早稲田大学に入り、ヘリゲルにならって早大の弓道部で弓をやりながら禅の勉強を始めた。が、「禅の勉強をする気なら、それ一本に絞った方がいい」という弓の師匠の助言に従って、ついに一切を放棄して禅寺の修行僧になるのである。

このアメリカ人は「雲水」という言葉が好きらしく、僧侶のことを雲水と言っている。彼はその雲水になって各地の禅寺を転々とするのだ。雲も水も、一カ所に停滞せずに自由に流れ動いている。そのように彼の理想とするのは無所有、無所住の生活なのである。

私が興味を持ったのは、彼が禅の奥義をアメリカ人らしい実体験に基づいた平明な言葉で説明していることだった。「煩悩を去る」「迷いを捨てる」ということを、彼は番組で次のように説明している。

米国人の彼は、座禅をすると体の節々が耐え難いまでに痛むことに苦しんだ。一時間座っていても膝・腰が痛むのに、それを一日中続け、さらにそうした生活を一ヶ月も続けるのである。ほかにも、禅寺には、彼に苦痛を強いるような行事が多かった。

彼は考えたのである。座禅をして膝が痛むというのは、変更不可能な、「事実」なのである。にもかかわらず、人は痛みをごまかすために泣き言を口にしたり、あれこれ理屈を並べたてたりする。だが、痛みが客観的な事実である以上、どう自分を慰撫しようと誤魔化そうと、その現実を変えることは出来ない。事実を事実として受け入れるしかないのである。

煩悩や迷いは、事実を受け入れまいとすることから起こる。自分が体験しつつある困難や苦悩を上から押さえこみ、心の中から消してしまおうとするから迷いがうまれる。目前の事実を覆い隠すために無益な解釈をほどこし、有害な添加物を付け足すことで、煩悩や迷いは一層深まるのである。

われわれは苦痛や苦悩に直面したら、ジタバタしないで事実をそのまま受け入れるしかないのだ。空しい希望を捨てて事実を承認し、事実をありのままに黙視することなのである。そして沈思しつつ妄想がどのようにして生まれてくるか、その現場を目撃すれば、以後、われわれはあらぬ妄想にとらわれることがなくなる。

苦しみ悩む人間は、密室の中で鏡に向かって自分の顔を映しているようなものだ。鏡をいくら眺めても自分の姿しか見えてこない。だが、事実を受容すれば、その瞬間から鏡は窓に変わる。窓を通して、広大無辺な客観世界が見えてくる。人は、こうして自家中毒症状から抜け出て、広々とした「事実唯真」の世界に出ることができるのである。

現代人は事実を直視する代わりに、事実の上に妄想を塗り重ねて仮装の現実を作る事に精出している。そして、その仮装現実を更に強化するために、細木数子や江原啓之のホラ話に飛びつくのだ。世の中に細木や江原の話ほど荒唐無稽なものはないのに、人は事実から目をそらすためにやすやすと彼らのウソ八百を信じてしまう。

トーマス・カーシュナーは、修行の結果悟りを得たとも、真実をつかんだとも言っていない。苦行十余年の後にも、彼は鬱病の症状を呈し、ほとんど物が食べられなくなったことがある。だが、彼は精神が正しい方向を目指している限り、問題はないという。要は各人の生命の方向性にあり、それが善なるもの、真実なるものに向いていたら、多少の誤りがあっても許されるのである。

仏教の問題点は口語訳の経文を持たないことにある。禅宗の問題点は禅問答の神秘性ドグマ性にあるのだが、トーマス・カーシュナーのような外国人が、平明な言葉で禅体験を語ってくれれば、裨益するところが非常に大きいのだ。