甘口辛口

焚き火をすれば

2007/3/12(月) 午前 11:57


(写真は焚き火をする孫)

例年、農作業を始める前に、庭の各所に積み上げてある枯れ枝を燃やすことにしている。隣家との境界線や堤防との境にサワラ・ムクゲ・紅葉などが植えてあり、これらを剪定したり、枝卸をしたりした際に出た枯れ枝を焼くのである。燃やした後には灰がのこり、これを耕耘機で土の中に鋤き込むと格好の肥料になるのだ。

この焚き火は、意外に時間がかかる。
業者に頼んで枝卸をしてもらったときなどは、トラック一杯分ほどの枝を切り落とすから、これらを少しずつ燃やして行くと半日はかかるのである。燃やす場所は畑の真ん中だが、まわりに家があるから、あまり大火にならないように、火を見守っていなければならない。

午後の半日を火のそばにいても、一向に飽きないのはなぜだろうか。
「キチガイは、火を見ると興奮する」と坂口安吾はいうのだが、家から椅子を持ち出してきて腰を下ろし、棒で火を繕っていると気持ちが凪いでおだやかになるのだ。無念無想というところまではいかない。断続的に想念らしきものが頭を通り過ぎて行くけれども、それはそれだけに終わって跡を残さないから心はおだやかなのだ。

原始人の意識も、こんなふうだったのではないか。
クロマニオン人は、洞窟の中で冬の寒さに耐えるため火を焚いて、一日を過ごした。焚き火の前に座りこんで火を眺めて日々を過ごす彼らの精神状態は、今の私の意識内容とそっくり同じなのではないだろうか。

半日火を守っていると、着ている物にも体にも煙の臭いが染みこんで焚き火くさくなる。縄文人も竪穴住居の敷きわらの上で焚き火の臭いにまみれながら、思うともなく物を思い、一生を過ごしたのである。

夕闇がせまる頃、まだ輝いているオキ火に水をかけ、原始人のような気分のまま家に入る。そして、テレビをつけながら、「生き物というのは、変わらないものだな」と思う。私が半日火を眺めていて飽きなかったのは、火を眺めて生涯を終えた原始人の心が今もなお残っているからなのだ。

3月4日、長男夫婦に連れられて孫が二人やって来た。
焚き火をするにはいつもより少し早いが、小学生の孫二人に手伝わせて、恒例の仕事に取りかかる。まず、彼らに屋敷内の各所に積んである枯れ枝を集めさせて火をつける。孫たちは給料生活者の子供だから、こんな形で「労働」によって仕事を手伝うなど、初めてのことなのだ。大喜びで働いているうちに、小学校一年生の妹は指に火傷をしたりする。

火傷した妹を小学校三年生の兄は、平気で眺めている。
「ボクもこの間、火傷したよ。火傷すると、水ぶくれになるんだ」
すると、妹はべそをかいた顔で、
「ワタシだって、前に火傷したことがあるよ」
と対抗する。

昔の農家の子供たちは、親の手伝いをしながら仕事の手順を覚え、伝統を継承していった。だが、今の子供は伝統体得経験としての「お手伝い」をしなくなっている。だが、焚き火をすれば、子供らの心にも原始の意識が甦ってくるかもしれない。

こうして孫と過ごした早春の一日は、例年通りおだやかに暮れたのであった。