甘口辛口

不機嫌な巨匠

2007/4/3(火) 午後 4:52

(写真は宮崎駿)

宮崎駿監督の仕事ぶりを取り上げたNHKスペシャルを見ていたら、自然に黒澤明監督を思い出した。黒沢が仕事場ではワンマンで、そのため、「黒沢天皇}と呼ばれていたことはよく知られているが、宮崎駿にもその面影があるのである。何かの週刊誌で読んだ彼に関するゴシップが頭に浮かんで来た。宮崎駿のスタッフが次々に逃げ出してしまい、ついには彼は息子とも衝突して、目下親子断絶の状態にあるというようなゴシップである。

撮影現場での黒澤明は、いつも神経質なピリピリした表情をしていた。
記者が気に入らない質問をすると、噛みつきそうな顔になって、つっけんどんな応答をする。「影武者」の撮影中に勝新太郎を降板させたときなど、その件について質問する記者をにらみつける黒沢の目には、殺気のようなものすら浮かんでいた。

これに比べたら、長期取材を受ける宮崎駿には磊落な感じがあり、たえず愛嬌のある笑顔を見せていた。ところが、次回作に対するイメージが煮詰まって来る頃になると、彼の表情は次第に険しくなり、取材陣に対して黒澤明風の反応を示すようになった。

宮崎駿は自分を追い回すカメラマンに、はっきりと今日は撮影をしないでくれと言い渡し、それから言い過ぎたと思い返したらしく、「僕は、元来、不機嫌な人間なんだよ」と弁解していた。彼は自分の磊落な笑顔は、不機嫌な地を隠すカモフラージュだと白状したのである。

黒沢と宮崎駿に共通するのは、「巨匠としての自負と誇り」だった。二人は、これらの自負の代償として、次回の作品も過去の作品に劣らぬ傑作にしなければならないという切迫感に追い立てられることになる。彼らは、肩の力を抜くことを知らないのである。

宮崎駿は、次回作をアニメらしい単純な映像で構成したいと語っている。過去の作品は、細密描写を連続させていたが、今度はひとつひとつの場面をあっさりした画像で組み立てたいという。そう言いながら彼は、そのために従来に倍する工夫を重ね、新機軸を編み出すために精魂を注ぎ尽くすのだ。

二人が不機嫌なのは、巨匠としての自負に由来すると思っていたけれども、スペシャル番組を見ているうちに、どうもそれだけではないらしいぞ、という気がしてきた。

宮崎駿は作品を作るにあたって、ストーリーを先に考えるのではないという。まず、彼はポイント、ポイントの絵コンテを描き、それを壁に貼りつけて思案をこらすのである。ストーリーはこれらの絵コンテを結ぶものとして、後から出来てくるのだ。

黒澤明もそうだった。撮影に入る前に絵心のあった彼は、油絵具で密度の濃い絵コンテを何枚も描いた。絵を描いているうちに連想が生まれ、映像が映像を生んで一連の画像連鎖ができあがる。そして絵コンテという数珠をつなぐ糸として、ストーリーが後から出てくるから、物語のながれとあらかじめ設定した場景の間にギャップが生まれてくる。ところが、その不調和が却って衝撃力となって観客を魅了するのである。

宮崎駿の場合は、制作するのがアニメだから絵コンテとストーリーが食い違っていた方が、作品に躍動感が生まれる。だが、絵コンテをつなぎ合わせて物語を作るという作法は、監督に重荷を課すことになるのだ。

まず第一に監督は絵コンテで描いた場面を、映画の中に忠実に再現しようとして苦労することになる。三船敏郎が黒沢監督と袂を分かつ原因になったのは、黒沢が冬のさなかに入道雲があらわれるのを待って、延々と空を見上げていたからだといわれる。その間、俳優も撮影スタッフも待機させられていた。三船はこの時、監督をにらんで、「頭がおかしんじゃねえか」と言ったそうである。宮崎駿も勘所で自分の考えていた通りのシーンになっていないと、スタッフに何度も作り直しを要求するらしいのだ。

第二に、ストーリーが細部まで決まっていたら、それに沿って順次映像を作っていくことが出来る。だが、絵コンテと絵コンテがあるだけで、その間をつなぐものが何もなければ、その都度その間を埋める場面を考えて行かなければならない。そうして作り出した場面が以前の場面と大きく食い違っていたら、元に戻ってもう一度やり直す必要も出てくる。宮崎アニメの場合、いよいよ制作が始まると数百人のスタッフが集結するというから、個人がフリーハンドでその場その場で手直しするようなわけにはいかない。

黒沢作品、宮崎作品は、いずれも一気呵成に作られたものではない。制作の過程で、行きつ戻りつし、消したり書き直したりするから、重厚な味わいが出てくるのだ。彼らの作品の重さは、彼らの不機嫌の重さなのである。

宮崎駿は相当なヘビースモーカーらしい。私は、そのタバコの吸い方の性急さが気になった。あれほどヘビースモーカーだった市川崑監督もタバコをやめている。宮崎駿も、そろそろ体をいたわることを考えるべきではなかろうか。ファンは、彼の作品をまち続けているのである。