甘口辛口

中曽根康弘と宮沢喜一(その2)

2007/4/11(水) 午後 9:02
党内のリベラル派を代表する宮沢喜一は、東大法学部を卒業して大蔵省に入省したエリート官僚で、津島寿一大蔵大臣や池田勇人の秘書官をしたことが彼の生涯を決定した。津島寿一は戦後に発足した東久邇宮内閣の蔵相だったから、秘書官の宮沢は占領軍の民政担当官とたえず交渉しなければならなかった。池田勇人が首相になってサンフランシスコ講和条約を結ぶことになると、今度はアメリカ国務省の役人と下交渉をすることが彼の仕事になる。

米国人と交渉するために宮沢喜一は、毎晩寝る前に英語のラジオ放送を聞く習慣を身につけた。秀才の彼は以前から経済学や国際問題の専門書を英語の原文で読んでいた。そこへ英会話の能力を身につけたから、彼は政界きっての「英語使い」になり、キッシンジャーなどとも友人になったのである。

欧米の学者や政治評論家と親しくなった宮沢には、インテリ風・学者風の肌合いが染みついた。このため、国会議員になってから日本土着型の同僚や新聞記者たちの反発を買うことになる。

インターネットで「宮沢喜一」という項目を検索してみると、こんな記事が載っている。

<歴代総理大臣の中で、宮沢喜一ほどしまりのない、ノッペラボウの顔をしている人はいないだろうし、顔どころか彼の発言は更に締りがない。「マ、世の中こんなもんですなあ」が、彼の口癖だ。東大出身で、エイゴがペラペラと聞くが、初対面の人には「どこの大学のご出身で?」と聞き、東大以外の大学出身と聞くと、小ばかにした顔をするという噂だ>

これに続くのは、次のような文章である。

<また、彼は朝日新聞の愛読者で、その新聞論調に共鳴する「はと派」議員と聞くが、毎朝朝日の記事に先ず目を通して、自分の記事がどんな風に書かれているかをチェックしているという。はと派の朝日も宮沢総理・議員の記事には気を遣って、悪しざまに批判したりはしない、という馴れ合いが暗黙のうちに成り立っている>

地元密着型の国会議員の多くは、エリート型の同僚に反感を持っている。宮沢喜一が、東大出で英語はペラペラ、それに朝日新聞お気に入りの政治家ということになれば、それだけで彼らの反発を買うには十分なのだ。しかし、一方、地元利益誘導しか頭にない地方議員型の同僚を軽蔑している国会議員たちも多い。こうした国際派の議員らは、結集軸を求めて宮沢の周辺に集まるようになった。

宮沢喜一の政治手法は、中曽根のやりかたとは反対なのである。中曽根が野心的な配下をかき集め、権力闘争に明け暮れたのに対し、宮沢はおっとり構えてその時々に政策論議をするだけだった。こうしたリーダーの性格を反映して、中曽根派の議員が抜き身のダンピラを振り回す野武士型の議員が多いのに反し、宮沢派の議員たちはお上品な紳士が多数を占め周囲から「公家集団」と呼ばれた。


小泉前首相は党を完全に押さえ込んだ後に、中曽根と宮沢の排除をくわだて、定年制を口実に彼らの議席を奪ってしまった。二人が党内右派と左派の象徴的人物で、大きな存在感を示していたからだった。この時、中曽根は怒り狂って小泉を罵倒したが、宮沢は淡々として、「党の総裁が決定されたことですから、従いますよ」と語って政界を引退している。

宮沢は小選挙区制になってから、リベラル派の基盤が揺らぎはじめたことを実感していたのである。中選挙区時代には、同じ選挙区から二人以上自民党議員の当選することが普通だったから、リベラル派の議員も登場しやすかった。だが、小選挙区になれば、代々受け継いできた後援会組織に乗った世襲議員や地元密着型のドブ板代議士でないと当選することが難しくなったのだ。

世襲議員や地元密着型議員を支える後援会組織には、保守的な地域有力者が多いから、その意見を反映して自民党の右傾化が進行する。今や中曽根人気が再燃し在野の彼の発言が重みを増しつつあるのに、宮沢喜一の存在は忘れ去られている。

安倍首相と中曽根が手を結び、凡百の自民党議員がその驥尾に付することになれば、外交政策はいよいよ硬直化して、世界の大勢と離反することが多くなる。従軍慰安婦問題に関する安倍首相のような発言が増えてくるのである。

宮沢喜一は首相になってから、意に添わぬ現象にぶつかるたびに、「マ、世の中こんなもんでしょう」と諦観の表情を見せた。彼は、そうつぶやくことで言外に日本人の後進性を匂わせ、これと戦うことの徒労を自分に納得させていたのである。

だが、自民党のリベラル派議員やその精神的支柱である宮沢喜一が諦めてしまったら、日本の右傾化は更に進み、世界を敵にすることになりかねない。徒労と分かっていながら、戦い続けることが政治家の任務なのである。