甘口辛口

無念の敗北

2007/5/1(火) 午後 6:09

 (写真は、対戦する鈴木と石井)

4月29日に行われた全日本柔道選手権で、珍しい光景を見た。決勝で鈴木桂治選手に敗れた石井慧選手が、試合場をおりるときから泣き始め、閉会式になってもまだ泣き続けていたのだ。負けた選手が涙を流すのを見ることはある。だが、これほど長時間にわたって、人目もはばからず泣く選手を見たのは初めてのことだった。

石井慧選手が泣き続けたのは、試合に負けて悔しかったからではないだろう。負け方が無念だったのである。彼は試合前に、記者の質問に答えて、「自分の柔道は荒々しいのが特徴だから、力一杯頑張りたい」と語っていた。そして、その言葉の通り、彼はその力任せの荒々しい柔道で決勝まで勝ち上がってきたのである。

特に、決勝戦前の準決勝で井上康生選手と戦ったときには、その荒々しさがよくあらわれていた。

柔道では、片手で相手の襟を掴み、もう一方の手で相手の袖口を掴めば優位に立つことが出来る。そこで試合は選手同士の組み手争いになり、これが試合の最後まで延々と続くこともある。石井慧選手は準決勝の対井上康生戦で、最初組み手争いをしていたが、やがて戦法を変えて片手だけで相手を引き倒す作戦に出たのだ。歴戦の井上康生もこの力まかせの荒技にあって、もろくもうつぶせに倒れた。しかも、二回まで引き倒されたのである。これはポイントにはならなかったが、結局これで印象を悪くして井上は石井に敗れたのだった。

石井はこの力任せの荒技で決勝まで勝ち上がって来たのだから、決勝戦でも鈴木桂治に対して同じ戦法を取るべきだった。ところが、彼は準決勝で鈴木が、その天才的な足技で相手を鮮やかに倒すのを見てしまったのだ。この時の鈴木の足技は見事だったというしかない。彼は試合開始後、ものの一分とたたないうちに切れ味鋭い小内刈りで一本を取ったのである。

石井慧選手は、当年20歳で、まだ大学生の身だった。怖いもの知らずの突貫主義で、昨年は全日本選手権を奪取したのだったが、ここで初めて鈴木の足技に恐怖を感じたのだ。そして、いざ決勝戦になると彼は腰を引いて防御の姿勢を取ってしまった。この姿勢になれば、距離が出来て相手の足技はかからない。事実、鈴木桂治は何度か足技をかけたけれども、石井の足には届かなかった。

腰を引いていれば、相手の足技を避けることが出来る。しかし、それでは自分の方から攻勢に出ることが出来ない。石井は6分間の試合時間が終わりに近づいた頃、このままでは負けと判定されてしまうと感じて、相手を自分の得意とする寝技に引き込もうと考えた。だが、それは試合の流れが生んだ寝技ではなかった。だから彼の体勢に無理があり、逆に彼はそこにつけ込まれて、危うく寝技で押さえ込まれかけた。

石井は必死になって、なんとかピンチを逃れたが、これで印象を悪くして審判員全員に敵方への旗を揚げさせることになる。石井慧選手は敗者として試合場を降りながら、(なんて馬鹿なことをしたんだ)と自らを叱咤していた。いや、彼は相手と組み合い、自然に腰を引いた瞬間から、これでは駄目だと絶望的な気持ちになっていたのだ。だが、一旦、逃げの体勢に入ってしまうと、どうしても体勢を立て直すことが出来なくなった。そして、寝技に頼るという姑息な手段に出て、墓穴を掘ってしまったのだ。

石井慧選手が泣き続け、何時までも涙を流していたのは、既に試合中から彼の胸を噛んでいた絶望感に圧倒されていたからだ。ようやく涙が収まった後に、石井慧選手はこう語っている。

「自信のない柔道をしてしまった」
「自分に申し訳のない柔道をしてしまった」

「自分に申し訳のない柔道をした」という言葉の中に、彼の万感の思いが込められている。柔道にしろ何にしろ、格闘技というものはひるんでしまったら必ず負けるのである。

石井選手は、頭皮が青く透いて見えるほど頭を短く刈っていた。そのきかん気の顔つきは、旧制中学校の四年生か五年生(今でいえば、高一か高二)という感じだった。昔の中学生には、こういった顔つきの生徒が多かったのである。そして、対校試合に出て負けでもしたら、宿舎に帰ってからも泣き続けたものだ。

テレビで泣きやまない石井慧選手を見ているうちに、私は昔を思い出したのであった。