甘口辛口

深沢七郎の人間滅亡教(その3)

2007/7/15(日) 午後 2:07

(ラブミー農場で)

深沢七郎の本をとびとびに読んでいて感じることは、彼が「下からの人間平等論」を基盤に原稿を書いているらしいことである。これまでの人間平等論がどんな人間も高貴な魂を持っているというような「上からの平等論」だったのに対し、深沢はすべての人間が自分第一主義という利己性を原点にして生きているという立場から人間平等論を展開する。

こうして人間を下の方から眺めるリアルな見方をしながら、彼は一見してヒューマニストと取られかねない世界平和論・反戦論・福祉国家論・死刑反対論などを繰り広げる。これは、大変おかしなことに見える。けれども、実はおかしなことでも何でもないのである。
人間は一皮むけば、みんな自分のことしか考えないエゴイストだという見方に立てば、他人の利己的な行動を目にしても腹は立たなくなる。他者に対して寛容になり、おのずと自足した生き方をするようになるのだ。

自分第一主義は、他人との摩擦を回避して平和に生きることを求める。ルソーは、人間をそのようなものと考えて、社会契約論を書いた。彼によれば、人は目の前に食べ物があれば、まず自分が食べようとする、だが、自分が食べてしまえば、残りを他人に分かつのにやぶさかではないという。人間だけではない、すべての生き物がこのように行動する。愛の精神からではなく、無用な争いを避けるためにこうするのだ。

人間本来の利己性には、他を凌いで自分だけ利得を独占しようというような欲求は含まれていない。エネルギーを効率よく使って、なるべく楽をして生きることだけを求めている。そして、現代の平和主義や福祉国家論も、実はこうした人間の本能的な欲求の上に築かれているのかもしれないのである。

人が本来の利己性に従って行動していれば、上昇欲求などに取り付かれてあたふたすることはない。深沢は、僅かな利得を得ようとしてあくせく稼ぐ代わりに、生活の質を落としてでも気楽に生きようとするのが人間本来の姿だという。

自らのエゴを容認できない「良心的な人間」は、自分の利己心に逆らってさまざまな徳目を案出し、愛の人になろうとする。だが、愛や正義を有り難がるのは、人間の本来性に逆行した不自然な行為なのである。彼はこんな猛烈なことを言っている。

< 悪魔だ、熱病だ!

 愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。

 異性愛だけではない。親子の愛、兄弟愛、愛と名のつくものはみな片輪で、はためいわくな感情だからきらいだ。わたしが家族を持たないのは、きらいな愛にとらわれたくないためだ。>

深沢は、二宮尊徳的勤勉主義に対抗して、ニート的反勤勉主義をとなえ、大正時代的ヒューマニズムに対して、土俗的ニヒリズムを持ち出し、人間尊重主義を逆転させて人間滅亡論を打ち出す。では、その論拠となるのは、何なのだろうか。

彼はイデオロギーや宗教、思想と名の付くものをすべて唾棄して、
「考えることとか、思想とか、そういったものがなくなってくることが人類の進歩だと思うね」
と放言する。そして、マリリン・モンローやジェームス・ディーンが魅力的なのは、彼らが馬鹿に見えるからだと強調する。

そうはいいながら、深沢七郎は仏教について深い理解を示している。「人間滅亡的人生案内」のなかで、彼は読者の質問に答えて次のように言う。

<生きることは楽しむことか、努力することかなどと考える必要はありません。なんのために生れてきたのか誰も知らないのです。それは知らなくてもいいのだとお釈迦さまは考えついたのです。

 彼は3千年前菩提樹の下で悟りをひらいたと言われていますがその悟りとはそのことなのだと私は思います。此の世はうごいているものなのだ──日や月やがうごいているのだから人間の生も死も人の心の移り変りもうごいているものなのだ、そうして、人間も芋虫もそのうごきの中に生れてきて、死んでいく、そのあいだに生きている──うごいている、誕生も死も生活も無のうごきだという解決なのです。

だから、幸福だとか、退屈だとか、と考えることがいけないのです、否、そんなことは考えなくてもいいことなのです。否、考える必要がないのです、否、幸福だと思うとき、退屈だと思うとき、それは意味のないうごきだからどちらも同じなのです。そんなことは考えなくてもいい、もし、考えても区別したりすることは出来ません、どちらも無という意味のないうごきなのだから。>

深沢七郎は、考えても解決のつかないような問題に頭を使うことは止めて、人間本来の利己性にもとづいて楽に生きよという。人は勝手に人間の序列を考え出して、周囲の人間を金のありなしで差別したり、生まれや地位の良し悪しで判断する。そして、一段でも高いところに上がろうと精魂を使い果たしている。エネルギー収支という観点からいって、これほど愚かなことはない。

彼は、「下宿生活で、用事もなく、外出して、ぶらぶら街を歩いたりして、その日が過ぎて行けば、人の一生はそれでいいのだ」という。

彼の言説は、仏教理論を背景にした深沢七郎式プラグマティズムから来ている。人間、余計な荷物を背負い込まず、生涯独身で過ごすのが一番賢い生き方なのだ。けれども、いくら警戒していても好きな異性にであって結婚する羽目になるかもしれない。そしたら、極力子どもを作らないようにすることだ。皆が子供を作らなかったら人類は滅亡するではないかと心配する向きもあるかもしれない。が、地球を毒して来たのは人間なのだから、もし、この世に正義があるとしたら、それは人間が滅亡することなのである。

深沢七郎は、冗談か本気か分からないようなこうした人間滅亡教を掲げて論陣を張る。
次に、その放言の数々を「人間滅亡的人生案内」から拾い出してみよう。

(つづく)