甘口辛口

三浦久の「千の風」

2007/11/2(金) 午後 3:19

(写真は三浦久のCD)

三浦久の「千の風」

新井満の訳詩による「千の風」が登場したのは、去年のことだったと思う。だが、それに先立つ2年前の2004年に三浦久さんは、「千の風」をフォークにして発表している。三浦さんは、私のホームページでも紹介しているように、交換留学生としてアメリカの高校に留学し、日本の高校に戻ってから、今度は、またカリフォルニア大学に留学するという異色の経歴を持ったフォークシンガーである。帰国した彼は京都大学の大学院を出ているから、金箔付きのインテリと言っていいだろう。

この三浦さんが、「千の風」を含む九つの歌曲を集めて、アルバム(CD)を出している。この人の訳した「千の風」は、以下のようになっているので、興味のある方は新井満の訳と比較してみたら、どうだろうか。

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「千の風」
  原詩者不詳、訳詞&補作詞:三浦久
  曲:三浦久


私の墓の前に立ち、涙流さないで
私はその石の下に、眠ってはいません
私は風、千の風、大空を吹き渡る
おまえがどこにいようとも、おまえのそばにいるよ

春は名のみの風の中に
夏の緑の草原に
金色に揺れる稲穂の波に
きらめき踊る風花にも


私の墓の前に立ち、涙流さないで
私はその石の下に、眠ってはいません
私は光、千の光、いつもおまえのそばにいるよ
どんなに暗い道を行こうと、おまえを照らしているよ

私の墓の前に立ち、涙流さないで
私はその石の下に、眠ってはいません
私は鳥、千の鳥、いつもおまえのそばにいるよ
耳を澱ませば聞こえるでしょう、おまえを呼ぶ声が

だから、私の墓の前に立ち、涙流さないで
私はその石の下に、眠ってはいません

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この他にも、こんなフォークが採録されているので、訳詞だけを紹介してみよう。

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「丁度よい」
  原詩者不詳、補作詞:三満久
  曲:三浦久


おまえはおまえで丁度よい
顔も身体も名も姓も
おまえはそれで丁度よい
貧しさだって丁度よい

親も子供も丁度よい
息子の嫁も孫も丁度よい
幸も不幸も丁度よい
喜び悲しみ丁度よい

歩んだおまえの人生
悪くもなければ良くもない
それはおまえに丁度よい
おまえはおまえで丁度よい
 うぬぼれることもなく
 卑下することもない
 上もなければ下もない
 おまえの人生丁度よい


 地獄へ落ちても丁度よい
 極楽行っても丁度よい
 生まれてきた日は丁度よい
 死んでいく日も丁度よい

 歩んだおまえの人生
悪くもなければ良くもない
それはおまえに丁度よい
おまえはおまえで丁度よい

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三浦さんは、このCDを通して、フォークシンガーとしての自らの思想と想いを語っている。「千の風」には、仏教的な死生観があり、「丁度よい」には老子的ともヒッピー風ともとれる生命肯定、現実是認の思想がある。(三浦久さんの経歴を知りたい方は、乞参照 http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/miura.html )

三浦さんは、「千の風」を音楽で紹介する先鞭をつけたけれども、知名度の点で新井満に及ばなかったからマスコミの注目するところとはならなかった。だが、そのことを彼は憾みとしてはいないだろう。彼の特徴は、打算や計算を抜きにして、己の欲するままに生きるところにあるからだ。

私は3,40年前、高校の教員をやっていた頃、生徒有志の発行するガリ版刷りか何かの印刷物に詩のようなものを載せたことがある。人間の身体の三分の二は水から出来ているという雑誌の記事を読んで作ったものだった。その印刷物が見あたらないので原文を引用できないが、その詩らしきものは大体こんな内容だったと思う。

母を亡くして悲しんでいる娘よ
あなたの母は、何時でもあなたの側にいる

あなたが嘆きながら森を歩いているとき
梢のしずくが、ぽとりとあなたの肩に落ちる
それはあなたの肩を叩く母のやさしい手
「泣いてはダメよ」とささやく母の言葉なのだ

あなたが悲しみながらひとり歩むとき
野辺の霧があなたをひっそりと包む
それはあなたを見守る母の瞳
それはあなたを包む母の愛・・・・・

これは、女子高校生向きに作為された感傷的な詩だと取られかねないが、私の頭にあったのは「人間というのは雪だるまみたいなものではないか」という唯物論的なイメージだった。雪だるまは、温かくなればたちまち溶けて跡形もなくなる。元の水に戻るのである。人も死ねば、その身体を構成していた水は大地に吸い込まれ、やがて朝露となり、霧になる。だから詩的にいえば、故人は水となって、何時でも私たちの身の回りにいるともいえるのだ。

「千の風」も「丁度よい」も、原詩者不明ということになっている。これらの詩が愛されてきたのは、キリスト教的伝統の強い欧米にも、神信仰と微妙に背馳する形で唯物論的な思考の存在することを物語る。三浦久さんは、欧米の民衆が心の底に抱き続けている非宗教的な感情に共感して、このCDを作ったのである。

三浦さんのCDを聞いて「いいな」と思っている私もまた、欧米の民衆と共に神懸かり的なドグマを拒否している。これは人類に共通する普遍的な心情ではなかろうかと考える。

訂正:新井氏のCDは2003年11月に出ているので、三浦さんの歌が先鞭をつけたわけではなかった。新井満氏と三浦さんは、ほぼ同時期にそれぞれの作品を完成していたのである。詳しくは、下記の三浦さんのHPを見ていただきたい。
      http://www.nagano.net/journal/miura/040114.html