甘口辛口

宇野浩二の奇妙な生涯(その4)

2007/11/27(火) 午後 2:04

(諏訪で:左端が村田キヌ=宇野夫人)

<宇野浩二の奇妙な生涯(その4)>

宇野浩二は多くの芸者と馴染み、これらの女たちとの関係についておびただしい作品を残してきた。だが、最後の愛人村上八重に対してだけは、ほかの女たちに対するとは異なる気持ちを持っていたらしい。

長沼弘毅は、宇野から村上八重の写真を見せられたことがある。宇野が八重と知り合って15年たったころのことだ。宇野は薄い紙にていねいに包まれた写真を、「うやうやしい」という表現がぴったりするような手つきで取り出したという。宇野にとって、八重は恋人以上の神格化された存在だったのである。

宇野が八重を知ったのは、大正12年のことで、宇野は三十二才になっていた。その頃、宇野は作家仲間の直木三十五とよく茶屋遊びをしていたが、この日、直木が「今日は八重次という女を呼ぼう」といって村上八重を座敷に呼んだのである。宇野は、初対面の八重の印象をこう書いている。

<八重次は、小柄で、丸顔の方で、その頃もう二十才ぐらゐ
であったが、どちらかといふと愛くるしい顔だちの女であった。
特徴は、眉毛がふとくて濃く、大きな澄んだ目に何とも
いへぬ愛嬌があったが、きかぬ気らしいところがあった(「思い川」)>

八重は最初から宇野に対して積極的で、自分の写真を宇野の懐に素早く押し込んだり、「今度は、一人で来てね」と宇野にささやいたりした。宇野浩二は、「思い川」のなかに八重がいかに自分に対して積極的だったかを繰り返し書いている。だが、これは八重が彼に「一目惚れ」した為だったとは思われない。

村上八重は、学歴こそないけれども、頭のいい個性的な女だった。彼女には「月給さん」と呼んでいる呉服商の旦那がいたが、この凡庸な旦那に彼女は満足できなかった(この旦那が「月給さん」と呼ばれた理由は、毎月正確に決まった手当をくれるからだった)。八重は直木三十五の愛人になっている朋輩の芸者を羨やみ、自分も作家の愛人になりたかったのである。彼女は述懐している。

「わたし、だんだんに高級になっていったのね。こういうお座敷に出てると、話題っていうのが、文学だとか美術だとか音楽だとか野球、それにお芝居というようなことばかりでしょう。ゎたしも、いつの間にか、一種の文学芸者みたいになって、ほかのお客が、つまらなく、馬鹿みたいにみえて来たんですの。宇野先生は、その頃、『杖長先生』と綽名をつけられていたわ」(「鬼人宇野浩二」)

八重は何とかして宇野と深い関係になりたいと思い、口実を作って彼を旅行に誘い出し、旅館を泊まり歩いている。一週間の旅の間、夫婦と名乗って同じ部屋で寝ながら宇野は一度も八重に手を出さなかった。八重にとっては、こんな男は初めてだった。彼女は女としてのプライドを傷つけられたような気がして、いよいよ相手に熱を上げていったのである。

八重は隔日に踊りの稽古に通っていたが、その帰りに宇野が執筆場所として利用している菊富士ホテルに立ち寄るようになった。そのうちに彼女は、家具調度を買い込んで部屋に運び込み、ホテルの一室を新婚所帯のようにしてしまった。やがて、彼女は自分の家を新築すると、それを「私たちの家」と呼び、二階を執筆用の部屋に作り替えて宇野に提供した。

村上八重は、年少の身で芸者屋として成功し、ほしいものは何でも手に入れてきた女だった。彼女は僅か21才で二人の抱え芸者を擁する店の女将であり、海千山千の待合いの女将や古顔の芸妓と対等にやっていける切れ者だったのである。こういう八重が、本気になって宇野を落としにかかったのだ。

宇野と深い仲になると、八重はまるで初めて恋を知った女学生のようにさまざまなことを提案しはじめた。

「先生、毎日正午のサイレンが鳴ったとき、何処かで先生が、何処かで私が、お互いのことを思っている、そのしるしに、サイレンが鳴ったら忘れずに黙祷することにしましょう」

彼女はまた「交換日記」を書くことも提案した。

「毎日お目にかかれないんですから、手帳を買って、それに二人だけの日記を思い立ったときに書くことにして、それを会ったときに渡すことにしてかわり番に書くことにしましょう」

こういう八重の存在が宇野の心の底深くに食い入ってくるにつれて、彼の方も少年のように純な気持ちになっていった。二人の関係は、宇野の発狂後しばらくの間途絶えるが、病気回復後は前にも増して深いものになった。そして、今度は宇野の方から八重にこんな手紙を出すようになった。

「やがて、いつかは、僕の喜びと君の喜びが、同じ日、同じ時間になるようになることを、いのりつつ」

宇野の気持ちは時の経過と共に深くなるばかりだった。戦後の昭和23年には、宇野は「八重次もの」の集大成ともいうべき「思い川」を雑誌「人間」に連載している。宇野は、この作品の副題を、「夢見るような恋」としている。この時、八重との関係は25年目に入り、宇野は57才になっていた。

宇野が変わらぬ愛情を持ち続けているのに反し、八重の方は水商売の女らしく、陰で別の男と関係していた。八重のような切れ者の女は、男性に対する好みも普通の女とは違っている。男に依存しなくても生きていけるから、いかもの食いに走るのだ。そもそも八重が宇野に入れあげたのも、いかもの食いの現れだったともいえるのである。

精神病になった宇野が快方に向かった頃、彼女は抱え芸妓に借金を踏み倒されて逃げられるという被害にあった。この時には、さすがの八重も裏社会に睨みをきかせている男の手を借りる必要を感じた。だが、彼女はその筋の信頼できる人物に依頼しないで、店にやってくる白川伸十郎という正体不明な男に貸金の回収を依頼したのだった。

白川は風采のあがらない四十男で、危険な臭いを放っていた。前々から白川に興味を持っていた八重が事情を話すと、白川は程なく金を取り返してきてくれた。これがきっかけになって、八重は白川の女になり、彼から手当を貰うようになった。白川との関係は20年近くにも及び、そこへ更にもう一人、林半造という男が愛人として加わってくるのである。

林半造も八重の店に通っていた客の一人で、カリエスのため片足を切断した男だった。八重の店に来ると義足をはずして、それを枕に横になる癖があった。八重はそんな林に興味を感じ、彼が妻に家から追い出されると、旦那の白川伸十郎には秘密で店にかくまってやったり、近くの寺の離れに彼を移し、月に二回ずつ密会したりした。

戦後になると、八重は金を出して林に炭団屋の店を持たせ、白川と別れてからは彼を自分の店に入れて夫婦同然の暮らしをしている。

宇野浩二は、こうした八重の男遍歴をすべて承知で彼女を愛し続けたのである。そして、「ぼくは、心の中にきみだけを持ち、頭の中に文学だけを持ってをります」というような甘ったるい八重宛の手紙を書き続ける。八重宛に出した宇野の手紙にはこんなものもある。

<二十五年のあひだに、きみは、いろいろの人におあひになつたでせうが、その二十五年のあひだ、(日数でいひますと、九千何日のあひだ、)一日も、(どんなにはなれてゐても、どんなに不幸であっても、)きみをおもひつづけてゐたのは、おもひつづけてゐるのは、ぼく一人である、と信じてゐます。

二十五年のあひだ、(九千なん日のあひだ)「ひとりのひと」をおもひつづけてゐたぼくは、日本一の、(世界一の)幸福者です。日本一の、(世界一の)幸福者でありますから、へたなところがあっても、「思ひ川」のやうな純真な小説が書けたのです>

──こうして見てくると、芸者を追いかけて過ごした宇野浩二の奇妙奇天烈な生涯には呆れるばかりだ。しかし、宇野の母も芸者をしていたことを思えば、頷ける点も出てくるのだ。彼の母親は、夫に死なれてから幼い宇野を母(宇野からすれば祖母)に預けて、仲居や芸者になって一家を支え続けたのである。この一事を通して彼の生涯をながめると、宇野が芸者に親近感を持ち、むしろ素人女よりも彼女らを高く買っていたことが推測されてくる。彼の口癖は、「一に文学、二に母、三に恋人」だった。宇野の家を訪ねて母親にあった友人たちは、例外なく彼女が年老いてもなお美しく粋だったことを証言している。
(宇野とゴーゴリの関係、松川事件との関係に触れる余裕がなくなった、他日を期したい)