甘口辛口

朝青龍と亀田大毅

2007/12/4(火) 午後 1:34

<格闘家の二つのタイプ>

TVで朝青龍と亀田大毅の謝罪会見を見ていて感じたことは、格闘技の世界で勝利をしめるためには、日頃の稽古や訓練だけでは足りず、闘争心を高いレベルで保つという心理面での手当が必要だということだった。「闘争心を高いレベルで保つ」ためにはいくつかの方法があって、その方法の違いによって格闘家はそれぞれのタイプに分類されるらしいのである。

旧制中学校では、武道が必須科目になっていて、生徒の全員が剣道か柔道か、いずれかを選ばねばならなかった。私は柔道を選んで5年間を過ごしたのだが、そこで知ったことは、試合をするとき弱気になったらまず勝てないということだった。試合前、向かい合って一礼した段階で、(強そうな相手だな)と思ったらもうダメなのである。

平素の力は消えてなくなり、へっぴり腰になって逃げ回ることになる。願うところは、何とか引き分けに持ち込んで試合を終わらせたいということだけになるのだ。

では、弱気にならず、闘争心をむき出しにして全力で当たるようにすればいいではないかと考えるかもしれない。だが、人間は、そんな具合にプラス思考で行動するように作られていない。相手が強そうだと感じたら、しっぽを巻いて逃げ出すか、相手と戦うことをさける算段をする──これが自己保存を欲する人間本具の行動なのである。

たまに、自分の力以上の難敵に挑む者もいるけれども、たいてい無惨な結果に終わる。こういう事例を見ているから、年を取るにつれて人はいよいよ慎重になるのだ。

だが、格闘家になれば、自己保存本能に逆らってでも、強い相手と戦わなければならない。感情のレベルを高い水準に保ったまま、厳しい戦いの場に臨まなければならないのだ。そこで、自分で自分を鼓舞するためのモハメド・アリ方式が生まれる。

イスラム教に入信する以前の彼の名前は、カシアス・クレイだった。試合の前に彼は自分に暗示をかけるため何時でも大口を叩くので、「ほら吹きクレイ」という名前が付いた。この「ほら吹き」タイプのボクサーが増えた結果、「ビック・マウス」はボクサー一般に共通する性格だと考えられるようになった。

モハメド・アリの知能は高かった。すぐれた運動神経と共に打てば響くような頭脳を持っていた。だから、彼は身体と同時に頭も使い、身も心も踊るように軽やかにファイトすることが出来た。お調子者だった彼は、リングに立ったときも、自己本来の性格通りに行動することを心がけ、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」戦い方をしたのだった。敵を前にリラックスして、まるで遊んでいるようなボクシングをすることが出来たのである。

亀田興毅もモハメド・アリ方式を真似ている。彼は、当意即妙の才に恵まれていたため、ある程度世の喝采を博したが、性格的にモハメド・アリのような軽さを欠いているため、リング上ではボクサータイプの踊るような戦い方をすることが出来ず、ファイタータイプ式の強引な肉弾戦を演じてしまっている。

その亀田興毅の真似をしたのが弟の亀田大毅で、大口を叩いたり、弁慶の扮装をしてリングに登場するところまでは好かったが、バッシングにあうと忽ち意気阻喪して、今にも泣かんばかりになってしまった。

モハメド・アリ方式は、ほらを吹いて、そのことで自分をリラックスさせて、自分自身を「日常的な自己」に戻す方法である。普段の地に戻って日常性を回復させようとしても、ちゃんとした自己が形成されていなければ、自らを混乱させるだけに終わる。亀田大毅はまだ、赤ん坊同然の自我しか持っていないから、今回の謝罪会見でもああした妙なことになってしまったのだ。

マイク・タイソンは、モハメド・アリとは違って自分を鼓舞するような心理作戦をとる必要がなかった。彼はおのれの欲するままに奔放に振る舞うことで、リングに上っても「たじろがない自分」を持続できた。

大相撲の世界にも、マイク・タイソン型の力士は多数いる。
先代若乃花(若貴兄弟の祖父)、千代の富士、朝青龍などは弟子を相手に遠慮会釈のない鬼のような稽古をすることで知られている。私生活でも自由奔放で、イヤなことにはそっぽを向き、好きなことにはのめり込み、万事自分本位に行動していたから、性格の悪さでも横綱級と言われて来た。

だが、誰はばからずに奔放に生き、土俵上でも同じ調子でやってきたから彼らは天下無敵の力士になったのである。過去の自由奔放型の力士は、攻めに回っているときには無類に強かったが、一度弱気になって守りに回ると、あっという間に崩れてしまった。

今回の謝罪会見で、朝青龍は一応殊勝なところを見せたけれども、彼が本当に心がけを改めたら、強い横綱から並の横綱になり、さらに弱い横綱になってしまうのではないか。

繰り返すけれども、強敵と戦うときにもたじろがず、普段通りの力を発揮できるボクサーや力士が勝者になるのだ。勝負の世界で、実力以上の力を出すということはありえない。奔放に生きている人間は、奔放な試合をするときに実力通りの力を出せるのであり、本来とは異なる戦い方をしたら、その瞬間から力が出せなくなるのだ。

双葉山は、平常心で土俵に上り得るようになるために、ひたすら心の修行に努めた。だが、思うようにならず、怪しげな新興宗教にひっかかってしまった。モハメド・アリも最後にはイスラム教に頼っている。格闘技の世界で生きること、つまり平常心で戦うことは、なかなか難しいことなのである。