甘口辛口

美貌の皇后(その2)

2007/12/19(水) 午後 7:09
<美貌の皇后(その2)>

その後、鬼は毎日のように染殿に現れた。

当麻ノ鴨継は綾戸式部から鬼が毎日現れるという連絡を受けて、急ぎ御殿に伺候した。綾戸式部は染殿の女房たちを束ねる高位の女官である。こういうときには、彼は弟子の伊賀ノ鶴丸を従えて参内するのが例だったが、この時には彼に留守を守るように命じた。鶴丸に恨みを抱いている葛木聖人が、彼を見かけたら何をするかわからないと思ったからだ。

綾戸式部は白昼染殿に鬼が現れることを廷臣たちに知られてはならないと考えていた。だから、女房たちに厳重な箝口令をしく一方で、万一の場合を考えて当麻ノ鴨継に常時染殿に詰めていてくれるように依頼したのだった。当麻ノ鴨継は生まれつき足萎えで、女と交わることの出来ない体だったから、従来から男子禁制の後宮に自由に出入りすることが許されていたのである。

鬼は室内に当麻ノ鴨継が座っているのを見ても平気だった。鴨継にじろっと一瞥をくれただけで、几帳の紗を持ち上げて中に入り、皇后と何か話し始めた。小声で話し合っているから、鴨継には会話の内容が分からない。しかし、時々皇后がもらす低い笑声を聞いていると、后が鬼に何もかもすっかり許していることが感じ取れるのであった。

やがて几帳の内部から男と女の睦び合う気配がして来た。すると、室内の空気が微妙に変化し、あたりに淫靡な空気が流れはじめるのだ。恐怖のために体を硬くしていた女房たちが、熱に浮かされたように目を光らせ、やるせない吐息をもらし・・・・・

鴨継は毎日染殿に通っているうちに、鬼は短いときでも一刻(2時間)は几帳のなかにこもっていることを知るようになった。長いときには一日中、几帳から出てこないのだ。その間、中の二人は飲まず食わずで、抱き合っているらしかった。そのためか、豊かだった皇后の頬も次第に細り、美しいかんばせに凄艶の色が加わって行った。

しかし、こんなことを何時までも隠しておけるはずはなかった。綾戸式部も当麻ノ鴨継も後宮を監督する大納言に呼び出されて事情を聴取され、秘密は大納言を通して父太政大臣と天皇の耳にも入った。藤原良房は染殿に出向き、直々に強い口調で皇后を問いただしたが、后は何も記憶にないと言い張るばかりだった。娘を溺愛してきた良房は、要領を得ないままに引き上げるしかなかった。

宮廷の憂色は深くなるばかりだった。難波の津に配置されていた衛士たちが動員されて、染殿の周辺を蟻の入り込む隙もないほどに固め、殿中では加持僧たちが連日連夜祈祷を続けた。当麻ノ鴨継も、今では弟子の伊賀ノ鶴丸を従えて毎日染殿に詰めて警戒を怠らなかった。

鬼はぱったりと姿を見せなくなった。

二ヶ月間鬼が姿を見せなかったためか、皇后の様子も少しずつ落ち着いてくる。女房たちの冗談に歯を見せて笑うようになった。この知らせを聞いて一番喜んだのは文徳天皇だった。天皇はお気に入りの臣下を連れて、久しぶりに染殿を訪れ、月見の宴を催すことにした。中秋の名月を賞しながら、皇后と親しく語り合おうという趣向だった。

天皇が染殿に到着して座に着くと、几帳から出て皇后もその脇に座った。上座の二人の両側に男の廷臣が居並び、皇后付きの女房たちは、その背後に控える。天皇がご機嫌麗しく皇后に話しかけると、皇后は笑みを含んでうなずくのである。こうして明るい歓談が四半刻ほど続いた。

「おや、あれは何だ?」
廷臣の一人が、几帳を指さして声を上げた。几帳が揺れて、その向こうに人が動いている。皆が一斉にその方に目を向けた。天皇・皇后も背後を振り返った。

「明子――」
几帳のなかから声がした。すると、皇后は無言ですっと立ち上がり、袖を掴んで引きとめる天皇の手を振り払って、几帳の中に入っていった。以下は、筑摩書房「古典日本文学全集」による現代語訳。

< と、その時、例の鬼が突如一隅から躍り出て御帳の内に入った。驚
 きあきれ給う天皇を尻目に、后もまた例のごとく御帳の内にいそいで
 入る。とばかりあって鬼は南面の所に踊り出た。大臣公卿よりはじめ
 て文武百官はみなこの鬼をうつつに見たにかかわらず、恐怖のあまり
 一人として手を出すものがいない。

  あれよあれよと驚き騒ぐなかに、后もつづいて御帳から出られた。
 そうして衆人環視の中に、鬼と二人まろび臥し、えもいわず見苦しい
 ことの限りを、はばかるところもなくせさせ給うのであった。やがて
 鬼が起き上ると、后も起きて御帳の中へ入られた。天皇はそれを止め
 るすべもなく、悲涙を呑んで還御された。>

「今昔物語」によるこのへんの説明は誇張されすぎている。実際のところは、天皇が身内の廷臣を連れて非公式に染殿を訪れたとき、鬼が横合いから現れて皇后を傍若無人に連れ去ったのだろう。突然のことで、殿上人は呆然と見ているだけだったのである。

この物語の不思議なところは、ストーリーがここで終わっていることなのだ。話を進行中のままで放り出して、結末のない状態で終わらせている。読者が期待するような、鬼が退治されたり、皇后が正気を取り戻して鬼を追放するする結末になっていないのである。

「今昔物語」の作者も、話の締めくくりに苦労したらしく、末尾に妙な訓戒を持ってきている。

< されば、やんごとなき女人は、このことを戒めとして、かくのごと
 き法師をそばに近づけてはならぬ。このことはきわめて不都合で、公
 開を憚らなければならぬ話柄ではあるが、将来の人の鑑戒として法師
 に近づくことを強く戒めんがため、敢えてかくのごとく語り伝えたと
 いうことである。>

作者は、この物語を天皇・皇后が登場する公開をはばかる事件だと、遠慮しながら書いている。世界各国の宮廷秘話を探れば、こんな話はいたるところにあるのだ。明子皇后が祈祷僧を愛人にして、その関係をいつまでも続けたとしても、それは王妃が人のいい国王を尻に敷いて、公然と情人を作るという世界によくある事例の一つに過ぎないのである。いささかシチュエーションは異なるけれども、日本にも道鏡という男がいたのだ。

明子皇后は、絶対的な権力を握っていた藤原良房の愛娘だった。彼女は、それだけでもう亭主を尻に敷く優位な立場に立っていた。加えて、彼女が眩いばかりの美女だったということになれば、おとなしい文徳天皇としては妻と愛人の不倫関係を黙認しているしかなかったのだ。

私は、物語としては中途半端に終わっているこの説話を、少しばかり手を加えて作り直せないものかと考えている。今のところ、私の頭にあるプランでは、主人公は当麻ノ鴨継の弟子伊賀ノ鶴丸、――彼が京の大学寮を退学して、当麻ノ鴨継の弟子になるところから話を始めたいと思っているのだが。

(つづく)