甘口辛口

実録:広津和郎のヒステリー体験(その1)

2007/12/7(金) 午前 11:31

(昭和5,6年頃の広津和郎)  

<実録:広津和郎のヒステリー体験>

「年月のあしあと」が好評で毎日出版文化賞などを受けたために、広津和郎はこの続編を書くことになった。前作が宇野浩二の発狂・芥川龍之介の自殺のあたりで終わっているので、「続年月のあしあと」の方はそれ以後からスタートして太平洋戦争が終わるまでの期間を取り上げている。

前作には主として宇野浩二ら作家たちの生態がいきいきと描かれていて興味が深かった。だが、「続」を読んで興味をひかれたのは、広津和郎の女性問題であった。

広津の盟友宇野浩二は、ヒステリー女にいかに悩まされたかを「苦の世界」で事細かに語っている。広津もまた、40代の数年間をヒステリー女に付きまとわれ、心の安まる日がなかったのだった。宇野浩二は相手の女について書くとき、真偽を取り混ぜて描き、「真と偽の比率は、3対7」といっていたけれども、広津は事実そのままを書いている。その点、広津和郎は、愚直なほどに正直なのである。

広津和郎全集の年譜を調べると、広津44才の項に、「この頃、<続年月のあしあと>にX子として登場する女性との関係が始まる」とあり、そして、49才の項に、「この頃、漸くX子との関係を清算する」とあるから、X子との関係は足かけ5年間続いたことになる。時代からすると、昭和10年から、昭和15年に至る期間である。

X子は、「続」では次のような形で登場する。

< 彼女は数え年22で、女学校を卒業して丸の内の某会社
 に勤めていた.学校時代も優等生だった彼女は、一種の才媛
 といってよく、よく本を読む女であった。女学校を卒業後、
 その女学校で「源氏物語」を研究したのが始まりで、その後
 も引続き始終「源氏物語」についての文献を調べていた。或
 現代訳の 「源氏物語」を読んで、「この中では和歌が一番好
 いわ。何故かというと、和歌は訳してないから」などといっ
 たことがあったが、そういうところには、東京生まれらしい
 ウィットも覗かせた。>

X子は最初ボーイフレンドの大学生と一緒に広津を訪ねてきたのだが、そのうちに一人でやってくるようになり、間もなく広津とX子は男女の関係になったのだ。この辺のいきさつについては、広津は触れることをさけている。

X子と広津の関係は、同級生の間で評判になり、やがて女学校の教師の耳にも入った。それで教師は、同窓会の席上でX子に忠告を試みた。すると、勝ち気なX子は、こう言ってのけた。

「私はきっと広津と添い遂げて見せます」

X子の態度がおかしくなったのはそれからだった。彼女は急に会社を辞めて、広津の妻が広津に扶養されているからには、自分も広津に扶養される権利があると言い出したのだ。そして広津が態度を決しかねているうちに、彼女は睡眠薬自殺を決行するのである。

広津がX子のアパートに行ってみると、彼女は布団を敷いて寝ていた。
(ああ、眠っているな)と近寄ってみたら、枕元にカルモチン(睡眠薬の名前)の箱がいくつも空になって転がっている。広津はぎょっとして、かかりつけの医者に来て貰った。やって来た医者は、直ぐ胃を洗浄しなければならないが、手元にはそれに使うゴム管がないという。それで広津はゴム管を買いに夜更けの街に飛び出し、薬屋を片っ端から叩き起こしてみたが、目当てのゴム管を売っている店はなかった。

そこで再びアパートに引き返し、看護婦にも来て貰って大学病院前の薬屋でようやくゴム管を手に入れることができた。こんなふうにして徹夜で手当をして、やっとX子の命を取り留めたのである。

広津は、翌日X子の母宛に電報を打ってアパートに呼び寄せ、これまでの事情を説明した。X子の母は、早くに夫と死別し、女手一つで土産物店を開いて三人の子供を育ててきたしっかり者だった。彼女は広津の説明を、表情を動かすことなく黙って聞いていた。そして、全てを聞き終わってから、「それはご迷惑なことで」といった。

母の声を聞いて目をさましたのか、X子が甲走った声で叫んだ。
「お母さん、何しに来たのよ。さっさと帰ってよ」
「そうかい、帰れというなら帰りますよ」と母親は冷たくいって、広津の方に向き直り、「娘がああいいますから、帰ることにいたします」

そして彼女は何事もなかったように帰っていった。その後、X子の自殺未遂は何度となく繰り返されたが、母親をはじめX子の兄弟の態度は、何時でもこんな調子だった。結局、X子の問題は広津和郎が引き受けるしかなくなったのである。

X子は自殺を企てて広津を脅かすだけでなく、密かに広津の家に忍び込んだりするようになった。ある日、女中が二階で物音のするのを怪しんで探りに行ったら、二階から真っ青な顔をした女が階段を下りてきて無言で外に出て行った。女中が、「この家には幽霊が出る」とすっかり脅えて語るのを聞いて、広津は暗然となった。彼には直ぐX子の仕業だと気がついたのだ。

そして、ついにX子は白昼堂々と広津の家に乗り込んできた。
広津が座敷に出て行ってみると、X子がにやにやしながら座っている。広津の妻が夫に尋ねた。
「こちらは、どういうお知り合いの方ですの?」

広津が苦り切っていると、X子がキンキンと響くような甲高い声で、
「広津さんとわたしは、愛し合っていますの」

広津の妻が、弘津に質問する。
「あなた、それはほんとうですの?」
それには答えず広津が黙っているのを見て、広津の妻は大体の事情を察したらしかった。
「これは三人で静かに話し合いましょうね」
とX子に話しかけた。
「イヤです」

広津和郎は、この時になって、X子がとろんとした目つきをしているのに気がついて、詰問する。
「また飲んできたのか」
広津の妻が、怪訝そうに、
「どうなすったんです?」
「カルモチンだよ」と広津は噛んではき出すように答えた。
X子は睡眠薬を飲んで、乗り込んできたのだった。

広津はX子の問題でへとへとになりながら、彼女を突き放してしまうことが出来なかった。彼が何より恐れているのは、X子が本当に自殺してしまうことだった。彼女は睡眠薬を飲むことから一歩進めて、砒素を飲むようになっていたのだ。それで彼は、相手が自暴自棄にならないように生活費に加えて小遣いまで与える。そのせいか、X子の金遣いが急に荒くなった。

広津が顔を出すたびに、X子の部屋にタンスや三面鏡が増えていく。注意をすると、「だってこれは市価の半値よ」と弁解する。
「いくら安くても、前もって相談してくれなければ困るじゃないか」
「だって、買ってしまったもの仕方がないわ」

X子の金遣いが荒くなったのは、物欲のためというより、広津が自宅に金を運ぶのを阻止する為らしかった。経済封鎖をして本宅の家計を破綻させる狙いらしいのだ。広津は、自分がしばらく所在をくらませばいいかもしれないと考えた。X子が自殺騒ぎを起こすのも、彼の関心をつなぎ止めておくためだから、自分が姿を消せば相手も落ち着くのではないかと考えたのである。

広津は、以前から東北の白河に行ってみたいと考えていた。それで執筆場所に使っていた「新宿ホテル」をひそかに抜け出して、汽車に乗った。そして白河に着いてから人力車を雇って、静かな旅館に連れて行ってくれと頼んだ。案内された昔風の旅館は彼の気に入った。これなら身も心もボロボロになっていた自分を休養させることができそうだった。

久しぶりに熟睡して広津が目を覚ましてみると、何とX子が枕元に座ってにやにや笑っているのだった。彼女は、いつか広津が白河に行ってみたいと言っていたのを覚えていたのである。再び、地獄への逆戻りであった。

(つづく)