甘口辛口

実録:広津和郎のヒステリー体験(その3)

2007/12/11(火) 午後 9:29

 (娘の桃子と)


<実録:広津和郎のヒステリー体験>(その3)

広津和郎には、未完に終わった「青桐」という奇妙な作品がある。
これは彼が4人の女性との関係を同時進行させていた頃に、その女性関係の内実を率直に記した作品である。彼がこうした作品をおおやけにしたのは、彼の女性問題が新聞沙汰になり、「作家広津和郎が失踪 心中の恐れあり」とか、「第二の有島武郎事件か」とか、書き立てられたためであった。

「青桐」によると、「失踪事件云々」の真相は次のようなものだったらしい。
──広津は画家である友人Yに勧められて、白石都理が女将をしている待合を執筆場所にして原稿を書いていた。そのうちに、彼は女将と親しくなった。女将は長い間、Yを情人にしていたが、広津と親しくなると、彼女はYと別れると言い出した。

女将には正式に結婚している夫がいた。広津に恨みを抱いたYは、女将の夫に広津と女将が不倫をしていると告げ口したのだ。怒り狂った夫は、妻の経営している待合いに乗り込んで大暴れする。それで広津は女将のために隠れ家を用意してやり、自身も宇野浩二のいる菊富士ホテルに移ることにしたのだった。

広津は女将と自分が姿を隠せば、いずれ夫の興奮も冷めるだろうと予測したのだったが、女将の夫とYは二人の姿が見えなくなったので心中するのではないかと心配しはじめた。彼らがあまりおおげさに騒ぎ立てたため新聞にかぎつけられ、紙面をにぎわすスキャンダルになったのである。

「青桐」を読むと、広津は女将のために過剰と思われるほどの配慮をしている。友人たちは、こういう彼の性癖を「広津の弱者擁護癖」と呼び、広津の女性関係がやたらにもつれてしまうのは、弱者を放っておけない彼の「男気」に起因すると見ている。

大体、広津和郎がすでに学生時代から一家を支える精神的支柱になっていたのも、こうした彼の性格によるのである。貧乏、兄の不行跡、継母と兄との感情的な対立などで、実母の死後、広津家は修羅場のようになっていた。評論家の松原新一は、こんな風に家庭が問題を抱えこんだ場合、そのシワ寄せがしばしば家族の成員のうちの誰か一人のところに、かたよってやってくるといっている。

家族全員に対する冷静な目配りがあり、最後まで自分を持ちこたえる強さを持った人間のところに、シワ寄せが集中的にやってくるというのである。広津家の場合、女のきょうだいがいれば、姉か妹がその役割を引き受けたかもしれない。だが、広津の家では、そういう損な役まわりを引き受けるのは、広津和郎しかいなかったのだ。

学生時代の親友谷崎精二の語るところによれば、家庭内の地獄のような葛藤に疲れ果てた父の柳浪は、ある日、ひそかに広津和郎を呼んで、こうささやいたという。

「うちでは母さんなんか必要ないな。私はお前と二人だけで暮したい。二人で関西へ逃げて行こう。関西には知人がいるから二人で暮していける」

広津はこの時、父をいさめて一家の崩壊を単身で防いだという。こうした彼の家父長的な責任感が女性との関係にもあらわれ、あまたの女性たちとの関係を必要以上に長引かせることになったのである。

下宿屋の娘との関係を断つことが出来ず、そしてまた、ヒステリー女X子との関係をずるずる引きづり続けた広津は、4人の女との同時進行的な関係も適当に処理できなかった。N子は他の男と結婚して去っていった。が、広津は同棲中のM子、待合の女将白石都理、カフェー・ライオンの女給松沢はまとの関係はその後も続き、彼はそのどれをも切ることができなかった。彼は「青桐」のなかで、「M子とは妹として、白石都理とは親友として、松沢はまとは愛人として、三人の女との関係を持続させて行くことは出来ないものか」と虫のいい希望をもらしている。

広津はこの三人の女の中では、愛人と規定した松沢はまへの執着が最も深かったように見える。「青桐」では、はまは、「淋しい、イタイタしい表情をした、じっと深く思い沈んでいるようなところのある女」として描かれ、広津の「弱者庇護欲」をそそるような彼女の経歴が紹介されている。

彼女はかなり大きな宿屋の娘で、16,7の頃、同郷出身の有名な日本画家のところに行儀見習いのため住み込んでいた。しかし、家人の留守中に画家から暴力で犯され家に逃げ帰ってきた。家に戻ってみると、父は死亡し、残された母と弟二人が途方に暮れていた。はまは、どうせ汚れた身体だからと、金持ちの老人の妾になって家族を支えることにした。

覚悟して妾になったものの、毎日が辛かったから逃げようとすると、老人は短刀を見せて、「逃げたらこれで殺すからな」と脅す。はまは、その短刀で胸を刺して自殺を試みている。

傷が治ってから、はまは老人と別れ、母・弟と一緒に東京にやって来てカフェーの女給になり、一家の生計を支えてきたのだった。広津は、「この世では自分は幸福になれない」と信じているはまの、微笑がそのまま泣き顔に変わってしまいそうな表情に惹かれ、深い仲になったのである。

広津は、はまに正式な妻という名称を与えることが出来ないまま、40年近くを共にすることになった。「彼女は40年の間に、一つの不快な思い出も私に残さなかった」と広津は語り、彼女は空気や水のように自分を生かしてくれていたと感謝している。

はまは、つつましい女だったから、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左右衛門のエピソードを愛していた。松永安左右衛門は夫人に死なれたときに誰にも通知せず、一人だけで通夜をして、静かに茶をたてて夫人の霊前に捧げたのだった。はまは、この話を持ち出して、
「まあ、何ていいんでしょう。私もそんなふうに送って貰ったら、どんなにうれしいでしょう」と言っていた。

その松沢はまが、64才になって、まるで不意打ちのように心臓発作で死んだのである。告別式が終わり弔問の客が帰ってしまったあと、広津は二階の自室ではまの遺品を整理していた。遺品の中に、鉛筆で短歌などが記した手帳があった。広津の目は、書きかけらしい二行の文字の上でとまった。

「よき人に逢いよき思い出のみのこりたり
     わが生涯は幸いなり・・・・・・・」

この文字を目にした瞬間に、広津は、「おれの生涯もこれで終わったな」と思い、階下に降りていった。階下にははまの甥の松沢一直がいた。松沢一直は語っている。

「伯父はひとりで二階にいました。二階の八畳の部屋に伯母の位牌と写真が飾られていましたから、たぶん伯父はその前でひとりになって、いろんな思いに耽っていたのでしょうが、夜遅くなって、下へ降りて釆ましてね、突然私の前で泣き出した。体をふるわせてワアッと大声で泣き出した。号泣でしたね、それは・・・」

この時のことを、広津自身も「春の落ち葉」という作品に書いている。

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「わが生涯もこれで終ったか」
とそんな気がして来た。もし四十年の彼女
との生活に、彼女によき思い出をのこせたなら、そして彼女
をほんとうに幸福に思わせたなら、若し一人の人間に、一人
の女にほんとうにそう思わせたなら、それは一つの仕事をや
り遂げたと言っていい。

私は涙が出て来た。それが止めどがなくなって来た。いつ
私はこんなに泣いたろう。しかし妻に死なれた良人は泣いて
も好いのだ。誰にも遠慮することはない。これが人生で一番
悲しいことではないか。──実際、七十歳を越えて、こんな
に泣けるとは思わなかったほど私は泣いた。

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広津和郎というのは、こういう男だった。しかし老年になって、妻を亡くした男の気持ちは、すべてこのようなものであるに違いない。