甘口辛口

美貌の皇后(改編版その5)

2008/1/3(木) 午後 5:38
<美貌の皇后(改編版その5)

2章

鶴丸にとって、いつもの日常が始まった。あれ以来、皇后は物狂いの兆候を見せない。

鶴丸は鴨継に従って後宮に伺候して、皇后・中宮を始め女官らの診療を続けたが、鴨継は体力がまだ回復しないらしく女房たちの診察を鶴丸に任せることが多くなった。彼は、鶴丸が居並ぶ女房たちのなかに分け入って問診を続けるのを放心したように眺めていた。

ある日、帰宅してから鴨継が質問した。
「守屋赤馬という男は、よくお前を訪ねてくるが、前座に使えそうか?」
「何の前座ですか」
「鬼だよ。お前が鬼になる前に、下準備をしておかねばならんからな」

鶴丸は前々から気になっていたので聞き返した。
「私に鬼になれというのは、どういうことですか。ちゃんと説明してもらわないと・・・・」

鴨継は、じっと鶴丸を見つめていた。
「これから話すことは、他言してはならんぞ。后は今は小康状態にあるが、いずれは再発する。それを防ぐには、根本的な手を打たなければならんのだ」
「根本的な手?」
「そうだ。后は既に26歳になられるが、まだ生娘なのだ。女の喜びというものをしらない。だから、それを教えてやる者が、必要になる。だが、それが人間だと紛議のもとになる。鬼ならば問題はないのだ」

鶴丸は、唖然とした。
「すると、私が后に───」
「そうとも。お前が、后の愛人になって、女の喜びを教えてやるのだ」

鴨継は、皇后がまだ女になっていないことを音羽という老女から聞いたという。音羽は、皇后が生まれたときから世話をしてきた乳母で、皇后が輿入れする時に一緒についてきて寝食を共にしている。だから、皇后が初夜を迎えるときも、隣室にいて首尾をうかがっていたのである。

文徳天皇はその時16歳、皇后より数歳年少だった。しかもオクテで后の美貌に気圧されていたから、どうしても夫婦の交わりを果たすことができなかった。その後何度試みても失敗し、今では同じ部屋で寝ても何事もなく過ごしている。その皇后が物狂いの発作を示すようになったのは、皇后と同じ年齢の女御が妊娠したことを知ったからだった。自分とは不可能だった夫が、女御を相手なら、ちゃんと出来る。そして、妊娠までさせた───この事実が皇后を狂わせた。音羽も鴨継も、そう考えているというのである。

「后はこれまで男というものに関心を持っておられなんだ。ところが、お前が聖人を取り押さえるのを見ているときの后の顔が問題だった。后は生まれて初めて男を恋しいと思われたのだ。それからだよ、お前を鬼に仕立てて、后の閨に送り込むしかないと考えるようになったのは」

あまり、途方もない話なので、鶴丸は何とも言いようがなかった。
「私が鬼になる・・・・一体、どうやって鬼になるんですか」
「縫いぐるみを着るのさ」とこともなげに鴨継はいった、「その前に、縫いぐるみを着た男をあちこちに出没させておくのだ、そうすれば、女房たちは震え上がって、お前を本物の鬼だと思いこんでしまうさ」

鴨継が前座といった意味は、このことだったのだ。内裏の内部について隅々まで知っている舎人を選び、夜暗に紛れて鬼の扮装で出没させておけば、女房たちは縫いぐるみを着て染殿にあらわれた鶴丸を見て本当の鬼だと信じ込むはずだというのである。

「守屋赤馬という男は、見たところ女色にも弱いし、金にも弱そうだ。何とか奴を買収して、前座を務めさせるんだな」
鴨継は、守屋赤馬を取り込むために必要なら、いくらでも金を出すという。そして、鶴丸をそそのかすように、
「男と生まれて、ああいうお方に近づくことなど滅多にあるものではないぞ。世の男たちの見果てぬ夢を、お前は実現することができるのだ。しかも、后はそれを望んでおられるのだ」

皇后もそれを望んでいるという言葉が、鶴丸のこころの底まで届いた。

数日後、守屋赤馬がやって来たとき、鶴丸は連れだって賭場に出かけることを承知した。守屋が頻々と尋ねてくるのは、鶴丸を賭場に引っ張り出して、また、一儲けするためだったが、これまで鶴丸はその誘いを断っていたのである。

「今夜の賭場は、何しろ蔵人頭の別邸で開かれるんだからな、たいそうなお歴々が集まってくる。だから、ちっとやそっとではない大金が動くんだ」
と賭場に行く前から守屋赤馬は興奮している。

賭場に行ってみると、成る程、客の半分は身分の高そうな公達で、まだ若い貴族が多い。それが無鉄砲な金の張り方をして胴元を喜ばせている。怪しまれてはいけないというので、鶴丸は守屋赤馬とは離れたところに座り、丁の時には襟に手をやって衣紋を繕い、半の時には顔に手をやるというような合図を取り決めて勝負に臨んでいた。

守屋はなかなかの役者だった。時々、鶴丸の合図とは違ったところに金を張ってわざと負けてみせ、「ちっ、やられた!」などとぼやいてみせる。しかし、見る見るうちに膝の前に金を積み上げていった。客の視線が守屋赤馬に集まり始めた。

「客人、調子がよろしいようですな。私とサシで勝負しませんか」
と、賭場の差配をしていた40がらみのでっぷり太った男が守屋に声をかけた。その細い目に居竦まされながら、守屋は黙ってうなずいた。彼は鶴丸に全幅の信頼を置いているのである。

賭場の空気が一気に緊張した。誰も口をきく者はいない。守屋赤馬が持ち金の全部を差配の前に押しやると、差配の男も箱の中の金を全部それに加えた。壺振りが、「参ります」といって慎重に壺を振る。二つのサイコロの転がる音が、静まりかえった室内に響いた。壺振りが声をかける。

「どうぞ」

壺の中の賽の目が半と出ていたので、鶴丸は守屋に合図を送った。すかさず、守屋が叫ぶ

「半」

すると、どういう仕掛けがあるのか、サイコロの一つがことりと動いて賽の目は丁に変わった。

「丁」と差配が野太い声で言った。

「開けます」
鶴丸は、壺振りが壺を開ける寸前に、今動いたばかりのサイコロを回転させて元の賽の目に戻した。

壺振りは、壺を開けて顔色を変えた。しかし、気を取り直して、
「半でございます」

差配は憤怒の表情で守屋をにらみ付け、何か言おうとしたが、「やったな」「たまげたぞ」と口々に言い立てる客たちの声を耳にすると、無念そうに黙ってしまった。

───帰途についてから、守屋赤馬はずっしり重くなった胴巻きを手で押さえながら、おもねるように鶴丸の方を見た。
「この半分は、おぬしにやらんといけんな」
「いや、いい。あんたに預けておくよ」

守屋は、ほっとしたような顔になった。
「じゃ、今夜は女を買いに行こうじゃないか。二条通りに行けば、商人の妻女が客引きに出張っているそうだよ。自分の家に連れて行って、やらせるそうだ。結構、器量よしの女もいるらしいぞ、もちろん御所勤めの女たちに比べたら問題にならんけどね」

鶴丸は、日頃、守屋赤馬が若い公達たちを羨望の目で眺めていることを知っていた。貴族の子弟は、夜になると女官たちの局に忍び込み、夜這いのようなことをしているのだ。身分の低い舎人は、それを指をくわえて見ているしかないのである。

「それより、二人で鬼に化けて、女たちの局に忍び込んでみたら面白いよ。そして、夜這いに来ている公達を脅してやるんだ。縫いぐるみを着て行けば、こっちが誰だか分かりっこないからね」
と鶴丸がいうと、案の定、守屋はすぐ飛びついてきた。

「おぬしは、見かけによらずワルだな。面白そうだ、気に入ったよ、やろうじゃないか」
「私は内裏の中のことは不案内だけれど、大丈夫だろうね」
「まかしておけ。何処にどういう抜け穴があるか、何処に隠れていれば、人に見つからないか、こっちは、すべて心得ているんだ」

相談は、たちまち、まとまった。

(つづく)