甘口辛口

美貌の皇后(改編版その8)

2008/1/9(水) 午後 5:51
<美貌の皇后(改編版その8)>

3章

その夜、皇后が鶴丸に最初に問いかけたのは、昼間紗を隔てて二人が目を合わせることが出来た理由だった。

「あれは、どうした訳なの? 鶴丸には、この中が見えたの? 外からは見えないはずではないのか?」
「はあ、見えないはずなのに、見えたんです」と言って鶴丸は笑って見せた、「お后への想いが、そうさせたのでしょう」
皇后は、なお腑に落ちないような表情をしていたが、それ以上追求しなかった。

鶴丸は皇后の前にいると、話題が無尽蔵に湧いてくるような気がする。いくら話しても、話し足りないように思われるのだ。皇后も同じような気持ちらしかった。鶴丸に対してなら、何でも話せるようだった。

例えば皇后は、牛車の中から見た道普請の男に強く惹かれたことがあると打ち明けたりした。男は30前後で、下人を4人ほど使って道路脇の水路に溜まった泥を浚っていた。その男のきびきびした所作を見ているうちに、皇后は「賤の伏屋」という言葉を思い出したというのだ。あの男の妻になって賤の伏屋で共白髪になるまで睦まじく暮らしたいと思ったというのである。

皇后は、20代半ばの成熟した女の香気を漂わせながら、少女のような稚い表情を見せることがあった。そして、侍女たちにかしずかれ、几帳の奥に垂れ込めていながら、野外の陽光へのあこがれを抱いていた。

男たちは絶世の美女の内面がどんなものか、見当がつかない。それで必要以上にその内面を高く買いかぶってしまうけれども、彼女らは実はありきたりのことしか考えていないのである。明子皇后も、考えていることは並の女と同じであった。

昼間になると、皇后は几帳のなかから、鶴丸は広間の片隅から、互いを見つめ合う。夜、間近に座って話をしているときよりも、離れたところから相手を見つめ合っているときの方が、狂おしい気持ちになるのだった。だが、鶴丸の周囲には多くの人間の目があって、何時までも欲望に燃える目で皇后を見つめているわけにはいかない。皇后に向けた視線をさりげなくはずして、無関心を装わなければならない。

皇后には、それが不満らしかった。
夜になって鶴丸が訪れると、皇后は彼の気持ちが信じられないというのである。

「どうして私をちゃんと見ていてくれないのだ。私はずっと鶴丸を見ているではないか」
「それはお后様のまわりに誰もいないからですよ」
「私は、まわりに誰がいようと構わぬぞ。鶴丸から目を離しはせぬ」
皇后が口をとがらせて不平をいうところは、まるで幼い女の子のようだった。

だが、間もなく几帳のなかで、そんな痴話喧嘩をしている余裕はなくなった。鬼が毎夜皇后を訪ねてくることが知れ渡り、染殿の周辺を衛士の一隊が固めるようになったからだ。いくら綾戸が箝口令を敷いても、鬼の一件を何時までも隠しおおせるはずはなかったのだ。最早、鶴丸が鬼に化けて染殿に潜入することは不可能になった。

鶴丸には、気になっている問題があった。守屋赤馬が中秋の名月の夜清涼殿の百官たちを驚かしたあと、不意に宮廷から姿を消してしまったからだ。夜の時間を自由に過ごせるようになった鶴丸は、本格的に守屋を探す仕事に取りかかった。

守屋が女を囲うために借りた家は、東洞院大路が加茂川に突き当たるあたりにあると聞いていたので、鶴丸はそのあたり一帯を探し回った。三晩通ってようやく探し当てたその家は、すでに空き家になっていた。近所に甘酒を売っている小店があったので事情を聞いてみると、初老の店主は、「いや、大変でしたよ」と顔をしかめた。

守屋赤馬が囲っていたのは鍛冶職をしている男の妻だったが、守屋がその女と夕餉をとっているところに亭主の男が検非違使の役人を案内して乗り込んできたのだ。守屋は盗みの嫌疑をかけられていたのである。

「俺は、盗みなんかしていない」
と抵抗したために、守屋はその場で斬り殺された。
「え、殺された?」
「お役人たちは最初からその積もりだったらしいですよ。抵抗したら切り捨てろと、上から命じられていたって話です」

たかが舎人の身で、一軒の家を借り、他家の妻女を囲っていたのだから、盗みの嫌疑をかけられても不思議ではない。が、抵抗したら切り捨てろという命令が出ていたとは穏当ではなかった。その命令は、どこから出ていたのだろうか、それをたどって行けば当麻ノ鴨継の名前が出てくるのではないかと鶴丸は思った。守屋赤馬の話をするときの鴨継のにがい表情が思い出された。

鴨継に疑いを抱かせるようなことが、暫くするとまた起きた。

衛士たちが染殿を徹宵警護するようになってから、不眠を訴える女たちが何人も出てきた。一晩中、屋外で人の動き回る音がするため、安心感よりも恐怖感がつのり、一部の女たちが眠れなくなったのである。それで鶴丸は、鴨継の指示を受けて眠り薬を調薬し、5,6人の女たちに与えたのだった。そのなかに綾戸もいたのだが、薬を飲んだ他の女官たちにはそれなりの薬効があったのに、綾戸だけが痙攣のの発作を起こして寝付いてしまったのである。どういう方法を用いたか分からないが、鴨継は綾戸の薬だけに別の薬を混入させたと思われるのだ。

鴨継は邪魔になるものを皆排除しようとしている、鶴丸はそう思った。一体、彼は何の為にそこまでするのか。弟子の鶴丸を利用して皇后を「女」にして、皇后の物狂いを完全に治すという目的のためにだけ、こんな非道なことをするものだろうか。

───衛士が染殿を警護するようになってから一ヶ月たった。この間、鬼は一度も姿を現していない。御所の内外に安堵の色が広がり、天皇は染殿を訪れて内輪の祝宴を催すことになった。侍医としてのこれまでの労をねぎらうためなのか、祝宴には鴨継と鶴丸も呼ばれていた。

天皇は夜になってから、身近かな廷臣数人を従えて、お忍びで染殿にやってきた。皇后側も、この一行を全員で歓待する。男たちのまわりを彼女らが輪になって囲み、酒食をすすめるのである。鴨継と鶴丸は、廷臣たちの末席に座らされた。宮廷内での医者の地位は、それほど高くないのだ。

皇后は、宴がたけなわになってから几帳の紗を排して現れた。皇后が天皇と並んで上座に座ると、天皇近侍の廷臣が口々に丁重な挨拶をする。皇后は、それに対して軽くうなずく。それから彼女は一座をぐるっと見回したが、この時には鶴丸を無視していた。

天皇が、「少しならよかろう」と皇后に酒を勧める。すると、女官がすり寄って皇后の盃に酒を注ぐ。鶴丸は下座から、天皇と皇后が親しげに言葉を交わすのを見ていた。

隣に座っている女房らが、天皇・皇后を眺めて、「お二人がこんなに仲睦まじくされるのは、はじめてよね」と話し合っている。皇后はまるで、鶴丸に見せつけるように天皇と顔を寄せ合っていた。そして檜扇で顔を半ば隠しながら、ちら、ちらっと挑むような視線を鶴丸の方に送ってくるのである。

鶴丸は無言で広間を抜け出した。飲み慣れない酒に酔っていたということもあったかもしれぬ。皇后の挑むような視線を受けて、彼のなかで何かが崩れ落ちたのだ。鶴丸は材木置き場に走り、隠しておいた縫いぐるみと頭巾を身につけた。

染殿に戻って、いつもの樋洗口から室内に入る。几帳の中から紗をすかして眺めると、直ぐ間近に天皇と皇后の背中があった。その向側に、こちらに顔を向けて女房や女ノ童の居並んでいる。鴨継は末席で所在なさそうに膳の皿をつついている。鶴丸は暫く祝宴の様子を眺めていた。

鶴丸が紗をもたげて顔を出した。たちまち、向こうに居並んだ女たちが硬直したように動かなくなった。女ノ童の一人が切り裂くような声で悲鳴を上げた。几帳に背中を向けていた廷臣たちも一斉に振り返る。彼らも顔色を変え、そのまま動かなくなった。鶴丸は皇后に合図した。皇后は立ち上がり、鶴丸の持ち上げている紗をくぐって几帳の中に入る。紗が下ろされ、几帳のなかは静かになった。

やがて、几帳が微妙に揺らぎ始めたと思うと、すすり泣くような女の声が聞こえてきた。その声はすぐに激しくあえぐ声に変わった。廷臣たちも女たちも、言葉を発する者は一人もなかった。几帳のなかで何が行われているか、女ノ童にさえ分かったのだ。

天皇が立ち上がった。そして、躓くような足取りで広間を出て行った。廷臣たちがあわててその後を追う。几帳の中の悦楽の声は、その感も絶えることなく続いている。

(つづく)