甘口辛口

江原啓之の「愚者の楽園」

2008/1/18(金) 午後 0:30

(江原啓之)
江原啓之の「愚者の楽園」

昨日の新聞に週刊新潮と週刊文春の広告が出ていた。週刊新潮には、「細木数子が、ようやくテレビから消える」という記事があり、週刊文春には、「江原啓之のインチキ霊視」という特集があって、両方とも面白そうだった。どちらにするか迷った末に週刊文春を買うことにした。私は野次馬精神旺盛な人間だが、一度に二冊の週刊誌を買うほど酔狂ではないからだ。

江原啓之の番組は、二回ほど見たことがある。馬鹿馬鹿しいと言ったら、これほど馬鹿馬鹿しい番組はなかった。江原は、相談者の背後に守護霊がいると「霊視」するのだが、彼が守護霊として名指す霊は、相談者に関係のある死者のものだけでない。世界史上の適当な人物を選び、その霊魂が守護霊になって相談者を守っていてくれるというのである。だから、守護霊になってくれる歴史的人物は無数にあり、選択範囲の広いこと、まるでバーゲンセールの商品みたいなのだ。

おまけに、守護霊には本守護霊の他に、副守護霊もいるそうだから、そのアホらしさには脱帽するしかない。そして、正・副二組の守護霊は、江原の口を借りてこもごも尤もらしい助言をすることになる。すると、相談者は随喜の涙を流すのだ。今や、江原啓之をかこむ集まりは「愚者の楽園」の様相を呈し、人間はどこまで愚かになりうるかという事例の展示場になっている。

さて、江原啓之は、こういう番組で霊能者が行う常套手段として事前調査をやっている。問題の「インチキ霊視」は檀れいという宝塚出身の女優に対して行ったものだから、江原は事前に彼女についても調べている。そして彼は檀れいが雑誌のインタビューに答えて、「自分は精神的には男だ」と語っている記事を読んだらしいのである。

進行役が檀れいに、「ご両親は宝塚にはいることに反対しなかったか」と尋ねたとき、江原は横から割って入って、雑誌記事から得た知識をさりげなく持ち出し、檀れいの父親が冥界でこう語っていると告げるのである。

「娘が男のような気質を持っていることを知っていたから、娘には小さい頃から好きな道に進めと言って来た、だから、彼女が宝塚に入ることに自分は反対しなかった」

だが、冥界の父親にこう語らせたことで、江原は馬脚を現してしまうのである。

檀れいの母親が離婚したために、檀は二人の父を持っている。実父は今も生きており、義父は先年死んでいる。ということになると、冥界から語りかける父というのは義父しかいないことになる。だが、母の離婚したのは檀が宝塚デビューを果たした後のことだから、義父が小さい頃の檀を知っているはずはない。まして、「好きな道に進め」と言い聞かせていたはずはないのである。江原啓之は事前調査に手抜きをしたため、自分からインチキ霊視を暴露してしまったのだ。

日本の民放テレビはどうして、こうした怪しげな人物を次々に探してくるのだろう。細木数子、江原啓之、美輪明宏、木村静子(?)と、次から次に霊能者なるものが出てきて、先祖霊や守護霊について語るのだ。細木は降板し、いずれ江原啓之も姿を消すに違いない。だが、一人が消えれば、別のインチキ霊能者が現れ、そのまわりに又「愚者の楽園」が出現するのである。

───中国文化の支配下にあった日本には、本格的な宗教が成立しなかった。人間に厳しいモラルや戒律を求める唯一絶対の神が、日本に根付くことは、遂になかったのだ。中国には礼節を説く儒教が広く普及していたが、宗教として定着したのは俗信のにおいの濃い道教があるだけだったからだ。

道教は、福禄寿という世俗的幸福を願う民間宗教で、家内安全・商売繁盛・長生きの三つを祈念するものだった(「福」は家族的幸福、「禄」は財産、「寿」は長命を意味する)。「天帝」は各家族の台所に竈神を派遣して一家の行いを見張らせ、年に一度、竈神を天上に招集して家々の行いを報告させる。天帝はその報告に基づいて、福禄寿を与えるかどうか決めるのである。

そこで竈神の昇天する時期がくると、それぞれの家庭では、いい報告をして貰うために竈神の機嫌を取る。台所に貼り付けてある竈神のお札に飴を塗りつけるのだ。天帝とか、竈神といっても、飴や紙銭で買収される程度の薄っぺらな存在でしかないのである。

この道教が日本に入ってきて、日本人の民間信仰の形を決めたのだった。日本人は、多種多様の神々を信じている。日本人は、それらの神々が人間に何を求めているかというようなことは考えず、普段は神を敬して遠ざけておいて、何か願いごとがあるときにだけ、賽銭を上げる。中国人と同様に、神々は賽銭をあげるという手軽な方法で買収できるお手軽な存在と考えていたのである。

そして仏教が入ってくると、日本人は仏教の本質を大きくねじ曲げてしまう。仏教は本来無神論で、衆生済度を念願とするはずなのに、その辺はあっさり忘れ去られ、死者と自家の先祖霊だけを供養するものになった。その「先祖霊」なるものも異様に矮小化され、子孫に無限の尊崇を要求するエゴイストになったのだ。先祖霊が子孫に日々の供養を求め、そうしなければ子孫を不幸にするとしたら、そんなものは欲求不満の悪霊に過ぎないのである。

わが国に、霊能者を自称する怪しげな人物が次々に出てくるのは、日本に真の宗教、真の神が存在しないためだ。もちろん、「新興宗教」はどこの国にもあり、救世主を自称するペテン師は世界のいたるところにいる。しかし、日本のように、先祖霊や守護霊を説く怪しげな人物が芸能人化して、テレビの人気者になるケースはあまりないのではなかろうか。

では、キリスト教やイスラム教のような唯一絶対の神を信じる宗教を日本国内に導入すべきだろうか。アメリカ人の信仰心は大変に強く、神を信じる国民はイギリスが35パーセントであるのに対して米国は95パーセントに達しているという。そのアメリカに宗教右派と呼ばれる勢力がはびこり、ブッシュのイラク戦争を支持している。イスラム教徒にも狂信的なグループがあって、9,11事件を始め多くの問題を起こしている。

これらの宗教が危険視されるのは、その神絶対主義がヒューマニズム精神(人間尊重主義)と衝突するからだ。アメリカの宗教原理主義者がおかしている罪に比べたら、細木数子や江原啓之の罪はまだ軽いかもしれない。

とはいっても、細木的江原的人物が跋扈し続けたら、日本そのものが「愚者の楽園」になりかねない。細木や江原の説くところは、底の浅いホラ話に過ぎないのだから、事実とオハナシを見分ける小学生程度の力があったら誰も彼らにだまされはしないのである。その力をつけるために理数科の勉強が必要だなどと主張する気はない。

逆に、いい物語を読んでいれば、根も葉もないオハナシにだまされることはないと言いたいのである。理数科的人間が必ずしも合理的人間でないことは、オウム真理教に多くの理系秀才が加入していたことでも明らかだ。ホラ話に引っかからないためには、人間的な総合感覚、つまり人間性が必要であり、それを養うには世界文学を読むのが一番の早道なのだ。

週刊文春には、このほかに「小沢一郎の採決すっぽかし」が大きく取り上げられていた。民主党代表辞任騒ぎで問題になった小沢一郎が、性懲りもなく同じような失態をおかしたのだ。この小沢の失態を、議場から大はしゃぎで野次っていたのが安倍晋三だったというのだから、反省の足らない点で安倍晋三も同罪と言わなければならない。いつものことながら、政治家の面の皮の厚さには、驚くしかない。