甘口辛口

古山高麗雄の面貌(その2)

2008/1/26(土) 午後 7:14
<古山高麗雄の面貌(その2)>

「悪い仲間」(安岡章太郎)に登場する古山高麗雄は、なかなか魅力的である。だが、彼を「あの時代」に置いてみれば、より一層魅力的に見えたのではないかと思われる。太平洋戦争を数年後に控えた、まだ生活に幾分ゆとりのあったあの時代に、個性的な学生たちは皆自分の居場所を探していた。そんな時に、古山はワルとして生きる方法もあると仲間に教え、表世界の裏側に自分たちの居場所を作ったのである。

あの頃の学生は、従順な羊のような生き方を強いられ、心ならずも真面目に生きていた。だからこそ、ワルとして行動することには、わくわくするような刺激があったのだ。

左翼運動は完全に圧殺され、自由主義の学者や評論家も追放され、思想の自由がなかっただけではない。息抜きを求めて、若者らしくあそぶことも許されていなかった。スターの実演を見ようと映画館の前に集まった「ダラク学生」には、消防車の水が浴びせられた。講義をさぼって昼間から喫茶店やビリヤード場に顔を出している学生は、警察に連れて行かれて、したたか油を絞られた。

私は当時中学生だったが、新聞によく「学生狩り」という記事が出ていたことを覚えている。昼日中、登校しないでぶらぶらしているというだけで学生は警察に連行され、説諭を受ける時代だったのである。

慶応大学の予科に入学した安岡章太郎は、夏休みになると神田のフランス語講習会に通い始めた。そこで彼は京都の第三高等学校に在籍していた古山高麗雄を知るのだ。

古山は小柄で目のぱっちりした学生だったが、一種ふてぶてしい印象を安岡章太郎に与えた。そして実際に古山は安岡の見ている目の前で、食い逃げ、盗み、のぞき見などを実行して安岡の度肝を抜いたのである。

ある日、古山は安岡を一流のレストランに連れて行った。

「……店の中はかなり立て混んでいた。ボーイたちは急ぎ足に、しかし歩調正しく白い蝶の飛ぶように動きまわっていた。毛のふさふさと生えた大きなシュロの樹の植木鉢のかげになったテーブルをえらんで、われわれは二皿ばかり注文して食べた。

食べおわったとき藤井は笑いながら、「いいか?」と言った。ぼんやりしたまま僕はただ「ああ。」と答えた。すると彼はシュロの毛を一本引っばってマッチの火を点した」(「悪い仲間」)

シュロはたちまち燃え上がって、店内の客は総立ちになった。その間に、古山は安岡に合図してまんまと店を逃げ出した。

万事、こうした調子だった。古山は、ぞっとするほど不潔な一膳めし屋に出かけて蠅の何匹もたかった魚を平気でうまそうに食べたり、垢で真っ黒になった下着を着ている。安岡には、こういう古山が未知の国からやってきた異人のように見えた。安岡は、いつしかカリスマ古山高麗雄の忠実な弟子になっていた。

安岡は夏休みが終わり、北海道に行っていた仲間の倉田に再会すると、倉田の心胆を寒くしてやろうと思った。彼は半ば無意識で、半ば意識して、倉田の前で古山がやったと同じことを実行し、倉田をワルの世界に引っ張り込んだ。倉田も上京してきた古山と行動をともにして以来、古山を師と仰ぐ忠実な弟子になったのである。

こうして安岡と倉田という二人の崇拝者を持つことになった古山高麗雄は、京都に戻ってから手紙で弟子たちを指導することになる。二人の弟子が競争で、自分がいかにワルであるか報告してくると、古山はそれに論評を加えながら二人を上回る自身の破滅的行動を知らせてやるのである。

ついに古山高麗雄は、その悪行がたたって学校を退学になってしまう──これが「悪い仲間」のあらすじだが、彼が退学になったのには、別の理由もあったらしいのだ。

古山の「言葉への自戒」というエッセーに、次のような一節があるという。

<過日、大岡昇平さんと対談したとき、私は学校をや
めたいきさつを話しました。「遠因は反戦ですが、近
因は放蕩ですね」
   ・・・・・・・・・・・              
修身の時
間に、校長が大東亜共栄圏の説明をした、私がそれに
反論すると校長がうつむいてしまったので、私は教育
に絶望した。それから学校に行かずに放蕩を始めた>

古山の「悪行」は、ワルのためにワルを実行するという以外に、時代に対する反発や怒りがあったのである。すると、軍隊における彼の「弱兵」ぶりにも屈折した思いがあったはずである。

ここで「蟻の自由」をもう一度振り返ってみよう。古山は自身を微小な蟻のような存在と観じながら、その蟻に自由があるとしたら、どんなかたちをとり得るかと問うている。

古山は、防毒マスクを捨てたことで班長から、軍法会議にかけてやるぞと脅されていた。そんな状況下で、彼は死んだ妹にこう語りかけるのである。

「ここでは、僕はほんとにひとりぼっちなんだよね。なんにもないんだ。だから、どんな生き方だってできるんだよね。外側だけ、みんなに似せておきさえすれば、かなり自分流にやっていけるんだ。

(軍法会議にかけられても)もう、僕はこわくない。僕は死ぬ気でいるのだもの。 軍隊監獄にほうり込まれたって、僕は自分流に生きてやろうと思っている」

彼は金箔付きの弱兵だった。しかし、それは外側をみんなに似せて、その仮面の下でなされた「自分流の弱兵」だったのである。古山の作品「白い田圃」には、貴重品を入れる箱の下で、女の子のように泣いた彼とは別人のような古山像が描かれている。

この作品は、ゲリラの巣窟と見られているカレン族の部落を古山らが包囲した時の出来事を取り上げている。日本軍はこの部落の殲滅を意図して大砲を撃ち込み、逃げ出す部落民を重機関銃で片っ端から射殺することにしていた。いかにも日本軍らしい残忍な戦法であった。

作戦は順調に進行するかに見えた。部落から飛び出して森に逃げこもうとする村民を古山の戦友が重機で次々に倒したのである。やがて村民は日本軍に包囲されていると知って、外に出てこなくなった。

< そのうちに、
 緑色のロンジーの女が、背丈から判断して、十ぐらいの女
 の子の手をひいて飛び出した。女の子は、ピンクのロンジ
ーをつけていた。
 「あれも撃ちますか」一瞬、小原が逡巡した。

 「撃て、射撃練習じゃ」尾形は言った。
 「今度は、自分に撃たせてください」
 とっさに私は、重機にしがみついた。小原は私に、おめ
 え撃つか、と言ってゆずってくれた。私は、目標の三メー
 トルはど後方を狙って撃った。緑とピンクのロンジーは、
 ときどき転びながら、右手の林に向かって駆けて行った。

  大沢が、私の尻を蹴った。
 「なんじゃ、おまえ、当たらねえでねえか、この、でこす
 け」
  大沢は、私の腹の下に靴を入れて、私を重機から引き離
 した。>

古山は、カレン族の母子が射殺されそうになるのを見て、仮面で生きる生き方を瞬間に止めたのである。だが、彼はこうした行動について照れくさそうに、こう注釈を加えるのだ。

「私は、虚無的になれる体質ではなさそうだ。どちらかといえば私は、甘ったるく、めそめそした質ではないかと思っている」

古山の「人道的行為」は、これで終わったのではなかった。

(つづく)