甘口辛口

岸田国士の「暖流」(その1)

2008/2/8(金) 午後 0:00

 (娘の岸田今日子と)  

<岸田国士の「暖流」>

岸田国士は気になる存在だった。
何しろ彼は戦争中に見た映画「暖流」の原作者だったし、戦後になって偶然読んだ「村で一番の栗の木」という彼の戯曲も大変面白かったからである。

昭和19年といえば敗戦を翌年に控えた年で、この年に東京で学生生活を始めた私は、一年足らずの期間に「暖流」という映画を三回も見ているのである。東京には映画館が浜の真砂のようにたくさんあり、いろいろな映画を上映していたが、そのほとんどが「戦意高揚」のために制作された国策映画で、食指を動かすに足るようなものはひとつもなかった。そのなかで、僅かにリバイバル上映されていた吉村公三郎監督の「暖流」や、小津安二郎監督の「戸田家の兄妹」が私たち学生を引きつけていたのである。

同じ映画を三回も見れば、遠い昔のことであっても、記憶は鮮明に残っている。映画の中の情景が昨日見たようにマザマザと脳裏に焼き付いているのだ。

「暖流」の主要人物は、志摩病院の建て直しに乗り込んできた青年事務長日疋祐三を主役に、彼を愛する病院長の娘志摩啓子と看護婦石渡ぎんの三人で構成されていた。映画の主な焦点は、日疋祐三が二人の女性のうちのいずれを選ぶかということに置かれている。そして日疋は、あらゆる点で啓子より劣る看護婦石渡ぎんを選ぶのだ。

日疋祐三には硬派の男優佐分利信、病院長令嬢啓子には高峰三枝子、石渡ぎんには水戸光子が扮していた。いずれも役柄にあった俳優たちで、これ以上ない適役だと思われた。

私は吉村公三郎が何かの雑誌で、日疋が石渡を選んだ理由を説明している記事を読んだことがある。その記事の中で、吉村は、「どっちの女が日疋を必要としているかといえば、石渡の方だったから日疋は彼女を選んだのだ」と主張していた。吉村は、こうした彼独自の見方を打ち出すために、あの映画を作ったと語っていた。

院長の娘啓子が一人でやっていける自立した女だから、彼女は日疋の選択からはずされたという吉村公三郎の解釈が正しければ、日疋祐三は完成品よりも、未完成な女の方を選んだということになる。そして映画は間違いなく、そうした観点で作られていたのだった。だからこそ、幕切れの場面が哀切を極めるものになったである。

日疋祐三は志摩家の破産を救い、病院の再建にも成功したあとで、報告のために海岸で保養中の志摩母娘を訪ねる。報告をすませた日疋は、娘の啓子と散歩に出て、そこで石渡と結婚することを告げる。啓子が理知的で自立した女だったら、ショックを受けても、平静を装うことができたはずだった。

だが、啓子はあふれ出る涙を抑えることができなかった。彼女は、日疋の考えていたような理知的な女でも、しっかり者でもなかったのである。啓子は涙を隠すために海の中に駆け込んで顔を洗う。そして、日疋のところに戻ってきて晴れ晴れした表情で「おめでとう」と祝福するのだ。啓子のこのけなげな態度が、戦時下の学生たちをほろりとさせたのである。

私が戦後に「村で一番の栗の木」を除いて岸田国士の作品を読むことを拒否していたのは、彼が戦争中、大政翼賛会の文化部長をしていたからだった。戦争に協力した作家を、当時の私は唾棄していたのだ。

ところが、今度、古山高麗雄の作品をまとめて追加注文した中に「岸田国士と私」という評伝があって、それに目を通しているうちにオヤと思った。さらに、巻末に掲載された岸田の年譜を読むに及んで、彼に対する見方を改めざるを得なくなったのである。

 明治二十三年(一八九〇)
 十一月二日、東京・四谷右京町に岸田家の長子とし
 て生れる。父庄蔵は当時近衛砲兵聯隊附大尉。祖父
 (父方)は廃藩まで紀州蒲の槍術指南番で三百五十
 石位の家柄であった。母楠子は旧姓村辻、紀州藩家
 老の出であった。

こうした記述に始まる年譜を追っていくと、岸田は尚武の家系を継いで陸軍幼年学校に入学し、それから陸軍士官学校に進んで職業軍人になるというコースを歩んでいる。

そして22才で久留米連隊の少尉に任官した岸田は、この久留米連隊の連隊旗手を命じられているのである。このことだけで彼がいかに将来を嘱望されていたか分かるのだ。連隊の中で最優秀と目されている将校が、天皇から下賜された連隊旗を奉じる旗手に任命されるからだ。

しかし、彼はその二年後に軍人としての輝かしい未来を投げ捨ててしまう。休職願いを出して久留米連隊を去り、上京して、市内の貸間を転々としながら、フランス語の個人教授や家庭教師をして生活費を稼ぐ生活に入るのだ。彼は、幼年学校時代にフランス語を選択し、ルソーやシャトーブリアンに心酔していたのである。

東京でその日暮らしの生活を続けながら、彼は自分と同じように陸軍幼年学校に学んでいた先輩から助言を得ようと思った。彼は、訪問先を内藤濯にするか大杉栄にするか迷った末に、内藤を訪ねている。この時、もし岸田が大杉を訪ねていたら彼の人生は大きく変わっていたに違いない。

岸田は行動的な男だったから、フランス語で身を立てることに決めると、フランス語に磨きをかけるための東京大学フランス語専科に入学して力をつけ、更にフランスに渡って現場でフランス語を習得しようと企てる。このフランス渡航がなかなかの冒険だったのである。

乏しい渡航費しか用意できなかったから、彼は貨物船でまず台湾に渡り、それから香港に赴いて、そこで三井物産仏印出張所通訳の職を得てハイフォンに上陸している。ハイフォンでフランスに渡る見通しのつかないまま、三ヶ月を過ぎしているうちに、トランプ賭博で大金を手にする幸運に恵まれる。岸田は、その金で即座に船に乗り込み、マルセーユにたどり着くことができたのだった。その時、彼は30歳になっていた。

フランスで2年間過ごす間、岸田は日本大使館、国際連盟事務局の嘱託などいろいろな仕事をしている。これが並の作家とは違う広い社会的視野を彼にもたらすことになり、大政翼賛会の文化部長に招聘される原因になるのである。

父の訃報に接して帰国した彼は、翻訳活動のかたわら戯曲を発表して新進作家として認められるようになる。彼は評論家、新聞小説作家としても活躍の場を広げ、ジャーナリズムの世界に確固とした地位を占めた。

年譜によると、「暖流」は昭和13年に朝日新聞に連載されている。昭和13年といえば日中戦争たけなわの時期で、日本が南京占領に続いて武漢三鎮を陥落させた年である。そうした時期に、岸田は戦争のにおいをほとんど感じさせない「暖流」のような小説を書いているのだ。

軍隊を嫌ってフランスに渡った自由人岸田は、帰国すると近衛文麿の大政翼賛会に目をつけられるほどに「国家主義」的になっていた。彼は自由主義と国家主義の中間にあって、バランスをとりながら作家活動を続けたのだ。「暖流」の主人公日疋祐三は、まさにそうした中間型境界線型の人物だったのである。

評伝を読んでいるうちに、右と左の中間を綱渡りしながら生きた岸田の、その綱渡りの軌跡を作品の中に探ってみたくなった。そこで私は岩波書店から刊行された「岸田国士全集」28冊をインターネット古書店から取り寄せて、まず、「暖流」から読み始めたのである。

(つづく)