甘口辛口

卑俗化する女たち

2008/3/7(金) 午後 6:56
<卑俗化する女たち>

多分、芹沢光治良の短編だったと思うけれども、こんな作品を読んだことがある。

──中年を過ぎてから文壇に登場した小説家のところに、同じく中年の女性が訪ねてくる。彼女は、彼が学生だった頃に親しくしていた女で、恋愛関係に進む一歩手前で別れた相手だった。

その頃の彼女は、高いものを目指して努力する個性的な女子学生だった。だから、20年を経た今日、彼女は人間として成熟した女性になっているだろうと思ったら、その期待は破られる。相手は手垢にまみれたような世俗的な女になっていたのである。

「あなたも出世なさって・・・・」というような言い方で彼女は男の成功を祝福してから、自分も夫と共に中小企業を経営して今は幸せに暮らしていると、わざとらしい謙遜の言葉を交えながら話すのである。若かった頃の彼女からは、高貴な魂のようなものが感じられたが、最早そんなものはどこからも感じられなかった。

その短編は、辞去する女を作家が憮然として送り出すところで終わっている。恐らくこれは、作者の実体験に基づく作品と思われるが、これと同じような事例を多くの男が体験しているのではなかろうか。もちろん、男同士でも、昔は理想に燃えていた友人に再会したら、すっかり卑俗な人間になっていたというようなことはある。だが、なぜかこの種の失望体験は、相手が女友達の場合の方が多いのである。

それは、一つには若い女性が男の前に出ると本能的に猫をかぶって自分を品よく見せるという事情があるからだ。女性はどこかで自分を、よい買い手を捜している売り物だと感じているから、無意識のうちに男の求めるような女になろうと努力し、結局、「偽善者」になる。しかし、もっと大きな理由は、男が就職して職場という狭い世界で生きるのに対して、家庭の主婦は家の「外」というもっと茫漠とした世間のなかで生きなければならない点にあるだろう。

端的に言えば、世俗的な人間とは多数の側につくタイプであり、理想主義者とは少数の側でがんばるタイプなのである。そして女性はその社会的なありようから、どうしても多数派につくことになるのだ。上記の短編小説では、世俗化した女に失望する作家が描かれている。が、女の側からすれば、個性や理想に執着し続ける男は、未熟な子供にしか見えない。夏目漱石の妻は、夫を世間知らずの子供として眺めていた。漱石には、「細君」が世俗の代表に見えたから、彼は夫人に対して絶えず癇癪を起こしていたのだ。

以上のような次第で、女性が世俗化するのはやむを得ないとしても、親や学校がこの傾向を更に加速させようとすると、まずいことになる。

私はときどき「サンデー・ジャポン」という番組を見ている。この番組の常連西川史子を見るたびに、親の教育でスポイルされた実物見本に接するような気になるのだ。

西川史子の語るところによれば、彼女の父親は常々現代の日本のような社会に生きていたら、能力のある人間は必ず成功する、だから成功出来ない人間は、皆、無能力者だといっているという。彼女の母親も、夫と人生観を共有していて、娘の史子には成功するための勉強(受験科目中心の勉強)だけをさせて来たという。かくて娘も父親と同じ医者になり、社会的な勝者になった、メデタシ、メデタシ。

こういう話を聞くと、西川史子が、「年収3000万円(4000万?)以下の男性とは結婚しない」と放言して各方面の顰蹙を招いている理由も理解できる。彼女は確信犯なのである。自分にはそれだけの能力があるから、社会的な勝者になった、だから私は自分の能力にふさわしい相手を選ぶ権利がある、と信じているのだ。

だが、悲しいかな、受験に有利な勉強だけをしてきた彼女には、テレビに出ても語るべき言葉がない。コメンテーターとしては落第なのだ。そこで、「サンデー・ジャポン」では、彼女は毎回、半裸に近い格好で登場することになる。ここまでくると、西川史子の振る舞いは勝者のそれではなく、敗者のそれになる。

女性が自身を売り物扱いにしたり、多数の跡を追って世俗化するのはやむを得ないことかもしれない。だが、そこで踏みとどまらなくてはならない、それ以上歩を進めると、卑俗な女になる。こうなると、もう買い手はつかなくなるのだ。