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「自死という生き方」の効用(1)

2008/3/23(日) 午後 9:18

<「自死という生き方」の効用>(1)

自殺した哲学者が、自らの自殺について書いた本がある。

その本の新聞広告には、「晴朗で健全で、そして平常心で決行された自死」とあったので読んでみたら、全編、中年以降の年配者に自殺を勧める内容だった。

著者が自殺を勧めるのは、老化による精神の衰弱と自然死による肉体の苦しみを回避するためだった。自然死(普通の老齢による死)については、眠るような死というイメージがあるけれども、実際はそんなものでないと著者は指摘する。

「ベストセラーになり、全米図書賞を受賞した『人間らしい死にかた』(ヌーランド著、河出文庫)という本がある。そこには「自然死」について、特に「病院における自然死」についての事例が大量に収集され、克明に分析されている。

 専門家としてヌーランドは、『はじめに』の所で『私自身、人が死に行く過程で尊厳を感じた例に出会ったことははとんどない』といっている(「自死という生き方」)」

著者は、「自然死」のほとんどが悲惨なものであるにもかかわらず、世間には、「穏やかな自然な死」とか、「眠るような老衰死」という神話のような話が流布しているという。とにかく著者の言いたいことは単純明快で、「老化と自然死」を避ける唯一の方法は自殺することだというのである。

彼は自説を証明するために、終末医療の先駆者として「聖女」と呼ばれていたキューブラー・ロスの名前を挙げる。彼女は40数年間にわたって数千人の最期を看取って来た愛の人である。

働き盛りだった頃の彼女は、聖女と呼ばれるにふさわしい美しい言葉を残している。

「学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、
卒業がゆるされる……いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある」

人生最高の報酬と人生最大の祝福は、つねに苦しむ人々を助けることから生まれると彼女はいう。

「人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるす
べての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ」

こうしたキリスト教精神に満ちあふれた言葉を口にしていた彼女だったが、晩年、脳梗塞で倒れると、その言動は一変する。

彼女は自分が専門としてきた精神分析学について、噛んで吐き出すように、「精神分析は時間と金の無駄だった」と語り、自分の仕事・名声そして彼女に寄せられる夥しいファンレターなどには、一銭の価値もないと言い切るようになる。

彼女の毒舌は尽きることを知らなかった。
「愛なんて、もう、うんざり。よく言ったもんだわ」
「神様はヒトラーよ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出るわ」

著者はこういうキューブラー・ロスの例を挙げて、人は老化すれば豹変し、考えられないほどの知的頽落を見せつける。だから、彼はそうなる以前に自殺せよというのだ。

しかし著者の言葉は、説得力を持つに至っていない。それは、彼が自殺を決意してから、あまり時間をかけずにこの本を書き上げたからだった。気が急いていた彼は、十分な検討を経ないままに文章を書き進めた。だから、三島由紀夫・伊丹十三・ソクラテスの死を、老醜を嫌悪しての死という点で共通しているとして三者を一括りにしてしまうような過ちを犯すのである。
三島由紀夫の死には、老醜嫌悪の傾向があったかもしれない。が、伊丹十三が老醜を恐れて死んだとするには無理がある。ましてソクラテスが平然と処刑された理由を、老いによる自己の劣化を恐れたからだなどと断定するのは見当違いも甚だしいといわなければならない。著者は、自説を立証する人物として、もっと相応しい人間をあげることも出来た筈だが、気が急いてその場の思いつきを文章にしてしまったのだ。

こういう性急な態度は、自著の柱に「葉隠」を持ってきたことにも現れている。彼の著書には「自死という生き方」という名前が付けられているが、これは出版者側の付けたものと思われる。原本には、「新葉隠」という題名がついているのである。

著者によれば、自殺を覚悟し、死を予定しつつ生きて行くには、死を先取りした「心の枠組み」が必要だが、その「心の枠組み」を構築するための手本が「葉隠」のなかにあるというのだ。葉隠には、「いつでもあっさりと腹を切ることの出来る状態になっている心の有り様」が描かれているからである。

死ぬべき時に死ぬ自由を保持しておくことが精神の偉大さと晴朗さを確保するための条件と考えている彼は、「葉隠的老人道」なるものを提案する。

「そこで、『葉隠的老人道』を提案したい。『老人道』とは何時でも自死を決行する覚悟を身に付けた上で、そして出来れば『死にたがり』になった上で、日々生きることであり、このような態勢を整えたときにはじめて人生を肯定できるのであるし、また老年期を明るく積極的に生きることもできると考えているのである」

葉隠の武士たちは、チャンス到来と見ればすぐに切腹した。生きるか死ぬか迷ったら、問答無用、即刻死を選ぶのが 葉隠の推奨する生き方なのだ。著者によると、「切腹とは、「個人としての自尊心と主体性を確保するための行動」なのである。封建時代の武士たちは、体制への絶対服従というモラルで縛られていた。そういう彼らがガンジガラメの規範から抜け出して自己を回復するには、腹を切るしかなかった。

事情はキリスト教的モラルに縛られていた清教徒が、自己を取り戻すために「西欧型個人主義」を発明したのに似ている。

現代に生きる中高年者は、封建時代の武士や中世のクリスチャンとは異なり、外部規範に縛られてはいない。現代人を縛っている逃れがたいものは、老化によって人間の質が落ちていくという自然の摂理なのである。だから、中高年者は大自然への反抗として自殺するしかないことになる。自殺は、自然法則による宿命的な縛りから抜け出して、個人の主体性を回復する手段にほかならない。

この本は、「中高年の男女よ、心身の衰えを自覚したら、葉隠武士が腹かっさばいで死んだように、躊躇せずに自殺せよ」と呼びかける。著者は、話を論理的に運ぶ代わりに、読者に覚悟を求める。彼は、死を恐れない古めかしい情念を鼓吹しているのだ。

著者は、読むべき本として一冊だけ選ぶなら、それは夢野久作の「近世快人伝」だといっている。この本には、頭山満、杉山茂丸など戦前に活躍した右翼の巨頭について書かれている。彼は分析哲学を専攻する哲学者だったが、心情的に在野の浪人や東洋的豪傑に惹かれる古風なパーソナリティーの所有者だったのである。

彼は「哲学的事業」として予告通り自死した。一体、著者の須原一秀とは、いかなる人物だったのだろうか。次回に紹介したい。

(つづく)