甘口辛口

「人間臨終図巻」の人々(1)

2008/4/12(土) 午後 4:37

<「人間臨終図巻」の人々(1)>

「人間臨終図巻」(上巻)を読了した。これで古今東西にわたる四百名余りの人間が、どのようにして死んだかを概観したことになる。下巻でまた同じ数の臨終に接したら、何と九百人分の死に方について知ることになるのだ。

「死」というのは、万人共通の単純明快な事実だけれども、そこに至るまでの道筋は千差万別である。例えば島木赤彦は、臨終の部屋に詰めかけた斎藤茂吉をはじめ40人余の人々に見守られながら死んでいるのに、「海国兵談」をあらわした林子平は、
    「親もなし妻なし子なし版木なし
         金もなければ死にたくもなし」
という短歌を残して、一人寂しく死んでいる。

上巻を読み終えて感じたのは、こちらに予備的な関心事があると、それに関連した人物の記事が印象に残るということだった。

私は以前に佐田啓二や若尾文子についてのエピソードを読んで、興味を覚えたことがある。佐田啓二は、ある会合に出席するために都内の有名料亭に出かけたら、応対に出てきた若い女中が、「どなたさまですか?」と尋ねたというのだ。女中は、その頃人気絶頂の佐田啓二を知らなかったのである。

すると、佐田は惨めなほどに顔をゆがめた。打ちのめされたような惨憺たる表情になったのである。若尾文子の話は、もっと単純で、大映の看板女優になった彼女は、撮影所に出勤して自分の名札をひっくり返すときに、ライバルの女優の名札を憎らしそうに爪ではじくのを常としていたという。

人間は、「人も羨む有名人」になっても、欲望は留まるところを知らないらしいのだ。人間臨終図巻には、これに類する話がいくつも載っている。

夏目雅子はお嬢さん育ちながら、闘争心が旺盛だった。彼女は白血病で死んだけれども、入院中、口にするのは仕事のことばかりだった。彼女は、今どんな映画や舞台がはやり、女優の誰が人気を集めているかをしきりに尋ね、「私がいない間の映画は、みんなコケればいいんだわ」と半分本気で言っていた。

プレスリーに至っては、やることがもっと派手だった。彼は一万八千坪ある自邸で、心臓発作のため死亡した。プレスリーは、彼に代わって新しいスターになった歌手がテレビに登場すると、銃を持ち出してテレビの中のライバルを狙い打ちしたそうである。

「放浪記」を書いた林芙美子が死んだとき、葬儀委員長になった川端康成は、次のような挨拶をした。

「故人は、自分の文学的生命を保つために、他に対して時
にはひどいこともしたのでありますが、しかしあと二、三
時間もたてば、灰となってしまいます。死は一切の罪悪を
消滅させますから、どうかこの際、故人をゆるしてもらい
たいと思います」

この「他に対するひどいこと」とは、彼女の猛烈なライヴァル意識から、特に同性の女流作家を傷つけるような言動の多かったことをさしている。

作家やその他の芸術家の死因を見ると、圧倒的多いのが結核による死であり、頭の狂った芸術家の発病原因で大多数をしめるのが梅毒だった。ほかに自殺の多いことも芸術家の特徴の一つで、私は「麦と兵隊」のタフガイ火野葦平までが自殺していたことを今まで知らずにいた。

火野葦平は高血圧による眼底出血のため右目が失明状態になったとき、ノートの見開き二ページに遺言を書き、その二ページを糊付けにして、後は健康状態を記す日記として使用し続けた。彼はその翌年アドルムを飲んで自殺している。人間臨終図巻によると、彼の自殺は関係者によって長い間隠し通された。

「その翌朝、自宅のある九州若松を寒冷前線が通って雪模
様となり、冷え切った書斎で葦平が死んでいるのを家族が
発見したが、それまでの彼の決意を夢にも知らなかったの
で、だれもが心筋梗塞による病死だ、と考えた。

ノートには特に気づく者もなかった。

彼の愛した母親のマンは、片
時もそばを離れず、蒲団の中に手をさしいれ、足首を撫で
さすり、息子の死を信じられぬ母の祈りをこめて、「まだ、
ぬくい」とつぶやきつづけた。

のちにこのノートは発見されたが、母と妻にはなお知ら
されず、その三回忌の読経中にマンが、また十三回忌の
未明に妻が、それぞれ葦平に呼ばれたかのごとく死去して
から、すなわち葦平の死後12年目に、初めてこの秘密
が世に公表された」

関係者は、火野の母と妻の気持ちを考えて、二人が亡くなるまで葦平の自殺を隠し続けたから、マスコミも長い間、死の真相を知ることなく過ぎていたのだ。

寺田寅彦の妻が悪妻だったということも初耳だった。

寺田が脊椎の骨腫瘍で寝付いたと知って、幸田露伴は岩波書店の小林勇と共に見舞いに出かけた。二人を迎えて、寺田の妻は、「ちょっとお持ち下さい」と二階に寝ている夫に知らせに行った。階段を上る彼女の足音があまりに無神経で乱暴なので、幸田露伴は、「寺田君よりオレの方がまだ幸せかもしれない」と思った。露伴の妻も有名な悪妻だったが、寺田の妻ほどではないと思ったからである。

だが、寺田の妻が荒っぽい所作を見せるのには、理由があった。寺田夫人紳子は、以前に二人の妻を病気で失った寺田にとっては三番目の妻で、寺田はこの妻が子供を産むと先妻の子供たちとの間に悶着が起こりはしないかと考え、彼女とは性交渉を持たないようにしていたのだった。寺田は紳子夫人と17年5ヶ月も生活を共にしながら、夫婦ではなかった(らしい)のだ。

初耳といえば、溝口健二監督と田中絹代の関係も、私には初耳だった。

溝口健二は、「西鶴一代女」「雨月物語」「山椒太夫」などを監督し、黒澤明と肩を並べる世界的な大監督である。田中絹代はこれらの映画に主演した大女優であった。日本の「国宝的」大監督と、「国宝的」大女優は、おたがいに愛情をいだきあって愛人関係になっていたのだ。にもかかわらず、二人の関係は一向に進展しなかった。

溝口には、発狂して精神病院に入院中の正妻がいたし、正妻の入院後、溝口は妻の弟の未亡人ふじを実質的な妻にして同棲していたから、田中絹代の割り込む隙はなかったのである。田中には、ハッキリしない溝口への不満があったところへ、彼女が映画監督をやろうとしたら、溝口が「田中のアタマでは、監督はやれません」と言ったという噂が流れてきたから、絹代は腹を立てて溝口と絶交してしまった。

その田中絹代の耳に、溝口健二が白血病で死の床にあるという話が入って来る。彼女は昔の恋人を見舞いに出かけた。溝口は田中を迎えて淡々と言葉を交わしていたが、その顔はかがやくようだったといわれている。

外国人のラフカディオ・ハーンや魯迅の話にも心引かれる。

ラフカディオ・ハーンは、狭心症の発作に襲われたときに、死を予感して妻に遺言のようなことを告げた。自分が死んでも、決して泣いてはならない、遺骨は瀬戸物屋に行って、三銭か四銭の安い瓶を買ってその中に入れてくれと、たどたどしい日本語で頼んだのだ。
「私の骨いれて、田舎の寂しい小さな寺に埋めて下さい。私、死にましたの、知らせ、いりません。もし人が尋ねましたならば、はあ、あれは先頃なくなりました。それでよいのです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい」

この時には大事に至らずに済んだが、その一週間後にハーンは死んでいる。

ハーンは、妻に遠慮して食後のタバコを庭に出て吸うのを例としていた。その日の夕方、庭でタバコを吸っていたハーンが、薄闇の中から青ざめた顔で座敷に上がってきた。

「ママさん、先日の病気、また参りました」

妻の節子が、急いで彼をベットに寝かせようとすると、

「人の苦しがるのを見るの、不愉快でしょう。あなた、あっちへいって、なさい」

ハーンはベットに横になって暫くすると、息絶えていた。その顔には苦痛の色はなく、微笑の影が宿っていた。

(つづく)