甘口辛口

ビックダディーの右往左往(3)

2008/4/20(日) 午後 7:43
<ビックダディーの右往左往(3)>


林下清志と通代の論争を見ていると、雄弁にまくし立てるのは男の方で、通代はたまにしか口を挟まない。だが、男がいくら長広舌をふるっても女の気持ちは変わらないから、論争の結果は常に引き分けということになる。中絶するかどうかの問題でも結論は出なかったし、家族同居の場所を大棚部落にするか、名瀬市にするかという問題でも決着がつかなかった。林下が大棚を主張するのに対して、通代は名瀬市を主張して譲らなかったからである。

こういうとき、林下は子供を味方につけて、自説を押し通そうとする。通代も同じだったが、子供が父親と母親のどちらに着くかは明らかだった。通代には勝ち目がないのである。

林下は、まず高校生になっている長女を呼んで、母親が妊娠していることを告げた。が、さすがに自分の本心を露骨に出すことは避け、通代が三つ子を生んだときに危篤状態になったことを説明し、出産には危険が伴うことを話しただけだった。だが、林下は多くを語る必要はなかった。娘は父親が中絶を望んでいることをすぐに察知したからだ。

長女は、母が家族を捨てて男のもとに走ったときに小学三年生だった。以来、彼女は幼いながらに父親の相談相手になり、弟妹の面倒を見てきた。だから、彼女は林下の心理状態が手に取るように分かる。それに、彼女はまだ正式に復縁しないうちに、両親が再び性的関係を持ったことに批判的だった。そんな不潔な関係の下で、子供は生まれてくるべきではないのだ。

彼女は、この日を境に母親と目を合わさず、口をきかず、母の作った料理を食べようとしなくなった。これまで母親に抱いていた怒りが、一挙に吹き出したのである。

林下は、中学に通っている三人の息子にも事情を伝えた。大棚の借家に帰って、「緊急ミーティングをするから集まれ」と三人を呼び寄せ、通代の妊娠を告げたのだった。この時には、彼は通代の出産を半ば認めるようになっていたから、厳しい口調は影を潜め、一通りの説明をしたあとで、三人の息子に意見を求めた。三人は、口々に父親の求めていたような返答を出してくれた──出産するかどうかは、医師の診断を聞いて決めればいい。

林下の気持ちは、日がたつにつれて、さらに軟化していった。

林下家は、祝い事のある日には、「三色おにぎり」を食べることを恒例としていた。林下は、その三色おにぎりを作って、小学生組の子供たちも加えた食事の席上で、「これはお母ちゃんが、また子供を産むことになったお祝いだぞ」と宣言したのだ。

「お父ちゃんは、うれしいんだ」と言って彼は子供たちに尋ねる、「生まれてくる子は、男と女のどっちがいい?」

父親のその問いに応えて、男の子たちは一斉に、「男」といい、女の子は口々に「女」といい、にぎやかな祝祭気分のうちに食事は終わった。

一方、子供たちを味方につけたがっている点は母親も同じだったから、通代は父親がすでに子供たちに報告していることを知ってか知らずか、大棚の子供たちに妊娠の事実を告げる。子供たちは、先刻承知のことだから、母の言葉をおとなしく聞いている。そして、通代から、「生まれてくる赤ちゃんは男と女のどっちがいい?」と質問されると、前回と同様、男の子と女の子は二手に分かれて論戦をはじめるのだ。

子供たちは、格別、母に対して好意的な態度を示したわけではなかった。が、奄美に来てから、子供らから冷淡なあしらいを受けてきた通代は、自分の言葉に彼らがにぎやかに反応してくれたことがひどく嬉しかった。子供たちが反応してくれれば、それだけで通代の方に母親らしい温かな感情が湧いてくるのだ。

これ以後、通代は、林下に「みんなが、あんなに喜んでくれるとは思わなかった」と繰り返し語るようになる。彼女が赤ん坊を生むことに固執するのは、奄美大島での自身の居場所を確保し、林下との関係を確実なものにするためだったが、これに子供たちも出産を望んでいるという理由が加わったのである。

だが、子供たちが出産を待ち望んでいると考えたのは、彼女の希望的な観測だった。小学生の女の子らは、妊娠ということに興味を感じ、機会があれば母の腹に触りたがった。そして、「母ちゃん、いっぱい生んで来たんだから、赤ん坊はもういいじゃん」だとか、「生むの止めたら?」というのだ。

両親と子供たちが集まった全員集会の場でも、「赤ん坊が死んで、母ちゃんが生き残ればいい」と言い出す女の子が出て来た。通代が、「赤ん坊が助かれば自分は死んでもいい」というと、長女が刺すような口調で、「死んでもいいから子供を生むっなんて、自分勝手じゃん」と反論する。他人が何と言おうと、思うままに生きてきた通代にとって、これは胸に応える言葉だった。

だが、遠慮なく物をいいあうのも肉親なればこそだった。大棚の借家に滞在中、子供の宿題を手伝うなどして触れあう機会を増やした通代は、名瀬市のアパートを引き払って大棚に戻る気持ちになった。

「ビックダディー」シリーズは5回目になるが、今回の分は通代が名瀬市から大棚に引っ越してくる場面で終わっている。幕切れのところで、引っ越しの手伝いを済ませた長女は、父親にこう言い残して名瀬市に帰って行くのである。

「お母さんとの将来のことを考えた方がいいんじゃない?」

長女は復縁の問題をそのままにして、両親が同じ家に同居するのはおかしいと言っているのだ。

その夜、林下は通代を軒端に誘い出して長女の言葉を伝える。だが、復縁しようとは言い出さない。当分このままでやっていこうと、自分で持ち出した話を途中で打ち切ってしまうのだ。右往左往を続けてきた林下清志の気持ちは、未だ固まっていないのである。

従って、林下と通代が再婚するかという問題は、7月29日に予定されている通代の出産がうまく行くかという問題と共に、今後に残されることになる。「ビックダディー」シリーズは、いよいよ見逃せなくなった。