甘口辛口

高橋是清の最後

2008/4/23(水) 午後 4:31
<高橋是清の最後>


戦争が終わって暫くしてから、私は二・二六事件に関する特集記事を雑誌で読んだ。
それには、蔵相だった高橋是清が反乱軍の手で残酷に殺されたことが書いてあった。彼は大蔵大臣として陸軍関係の予算を削ったため青年将校らの憎しみの的になり、手足を切り落とされてダルマの姿にされたというのである。高橋は、その風貌から「ダルマ蔵相」と呼ばれていたからだった。記事には、これを知った昭和天皇が激怒して、反乱軍の徹底鎮圧を命じたとある。

三島由紀夫は、二・二六事件に参加した青年将校らを殉教者のように美化して描いている。これは三島だけでなく、戦争が終わってからも多くの学生たちは、「昭和維新」実現のために散華した二・二六事件の将校たちを賛美し、熱い共感の涙を注いでいた。

だが、昔から青年将校らによる「革新運動」に反発を感じていた私は、高橋是清に関するエピソードを読んで、(何が昭和維新だ)と思った。彼らの野獣のような行動に、体が震えるほどの怒りを感じた。

その頃のことだった。当時、学生だった私は友人と二人で都内の中学校に勤務している先輩を訪ねて行ったら、先輩は自分の担当しているクラスに私たちを連れて行って、生徒たちに何か話しをしろという。教壇の上に押し上げられ、中学三年生の前に立ったものの、とっさのことだから何を話したらいいか思いつかない。

「君ら、二・二六事件のことを知っているかな──」

私は五〇人の生徒に、高橋是清が殺されてダルマにされた話をはじめていたのである。生徒たちは皆ぽかんとした顔で聞いている。まだ、半分子供の彼らには、昭和維新だの二・二六事件だのといわれても、何の事やら見当もつかないのだ。私は、早々に話を切り上げたが、この時の記憶はながく頭に残った。場違いの話をしたことを悔いたからではなかった。生徒たちに話をした直後に、高橋是清がダルマにされたというのは、果たして本当のことだったのかという疑問が湧いてきたからだった。

いくら何でも皇道派の将校たちが、そんなことをするだろうか。彼らは皆純情な青年だったとされているのだ。──その後、私は昭和軍閥に関する本を何冊か読んだが、高橋是清がダルマにされた話はどこにも書いてない。すると、これは雑誌記事によくある根も葉もない話なのだろうか。

中学生に即席の話をしてから六〇年あまりたって、私はようやく高橋是清の最後について書かれた文章を読むことになったのだった。山田風太郎の「人間臨終図巻」の下巻に高橋是清が取り上げられていたのである。

雑誌で読んだ話は、大体、事実にそって書かれていた。高橋が青年将校に憎悪されるようになったいきさつを人間臨終図巻はこう記している。

<昭和10年11月末の、昭和11年度予算閣議で、巨額の軍事費を要求する軍部に対し、高橋は、国家の健全財政あっての国防だといって懇々と軍部を説得し、後になって心ある国民の共感を得たが・・・・・>

高橋是清が惨殺される場面は、次のようになっているので、人間臨終図巻から、そのまま引用する。

< 有馬頼義『二・二六事件暗殺の目撃者』 によれば、
「裁判記録では、是清は蒲団をはがれるまで眠ってい
たようになっているが、(女中の)阿部千代の証言は、反対
であった。信ずべき報告によれば、是清の寝室にはいった
のは、中橋基明(中尉)と、中島莞爾(少尉)の二人だけ
であった。

中橋は先ず『天誅!』と叫んだ。それに対して
高橋是清は 『馬鹿者!』と、どなりかえしている。高橋是
清はそのとき、八十三歳の高齢であった。

 『父はとしをとっていましたし、寒いときでしたか
ら、寝巻の上に、真綿のチャンチャンコを着て寝ていたん
ですが、殺された父の姿を、私は正視出来ませんでした。
拳銃で撃たれて横に倒れたところを、日本刀で斬りつけら
れ、右腕は胴からはなれ、蒲団の外へぶらんと出ていまし
た。

(中略) 胴は胴で、輪切りにされていました。これは
全く惨殺です。死んだ者に、幾太刀もあびせているんです
から、これくらい惨酷なことはありません。(後略)』と高
橋是影(是清の六男) は語っている」とある。>

これを聞いたときの昭和天皇の反応については、こう書かれている。

< 天皇は事件を聞いて「朕が股肱の老臣を殺戮す。此の如
き凶暴の将校等その精神に於ても何の恕すべきものあり
や」と激怒した・・・・・・真相は右のごとく
狂気の凶行で、天皇の怒りは当然である。>

人間臨終図巻の記述が本当だとすると、私が雑誌で読んだ特集記事は筋道において間違ってはいないようだ。だが、手足を削いでダルマにしたというのは脚色が過ぎるから、二人の将校の名誉のために訂正してやらなければならない。とはいっても、山田風太郎が言うように、これが「狂気の凶行」であることに変わりはない。

自ら正義を実行していると信じている右翼の馬鹿者たちほど、手に負えない者はない。事情は、戦前も戦後も変わりないのだ。社会党の委員長も、長崎市長も、右翼の手にかかって亡くなっているのである。