甘口辛口

坪内セン子と木村元

2008/5/9(金) 午前 4:10


<坪内セン子と木村元>


坪内逍遙が娼妓だった加藤セン子を妻にして、彼女に学問を教えた話は美談として語り継がれている。私は前々回、山田風太郎の原文に、伊藤整の「日本文壇史」に載っているエピソードを加え、「夫婦愛について」というブログを書いたのだが、逍遙とセン子の関係については異説もあるので、均衡を取るために松本清張の説をここに要約して示すことにした。

帝国大学卒の文学士が小説を書くことさえ奇異な目で見られた明治前半の時代に、逍遙は三年間遊郭に通い詰めて娼妓を落籍して妻にしたのだから、彼の行動はひどく目立った。しかも彼は、セン子が病気になると、その枕元で薬を煎じてやるほどの熱の入れ方だったのである。逍遙が焜炉に土瓶をかけ、団扇でぱたぱたやって薬草を煎じていたから、彼は遊郭で「焜炉の坪さん」と呼ばれていたのだった。

逍遙が妻の前身をひた隠すようなことをせず、世間の冷たい軽侮の目にも屈しなかったら彼は美談の主として賞賛されるに値した。だが、逍遙は、「半ば公然の秘密で、知るものは知っていた」妻の素性を隠そうとしたのだ。

松本清張は「行者神髄」という短編小説のはじめのほうで、いきなり坪内逍遙がセン子を妻としたことを恥じていたと暴露する。逍遙は早稲田大学の文学科長に推薦されたが、極力固辞し、帝国学士院会員に推されたときも辞退している。英国からグロスター公が来日したとき、宮内省はわが国におけるシェークスピア学者の第一人者として逍遙との会見を設定したが、これも彼は固辞した。松本清張に言わせると、これらは皆、逍遙が妻の素性がばれることを恐れ、彼が妻のことでコンプレックスを抱いていたことを物語るという。

これまで、巷間、セン夫人の内助の功は大きいとされてきた。生涯を通じて彼女は文字通り夫と苦楽を共にし、家庭内の経済的な雑務はもちろん、著述、編集に関する事務まで助け、自らは粗衣粗食に甘んじて、夫を文芸活動を支えて来たとされていた。

しかし、松本清張によると、これらは「公式の坪内逍遙伝」に出ている通説であって、実情は異なるというのだ。娼婦上がりの女は、家庭にはいると途端に吝嗇になり、化粧も忘れたようにしなくなる。着るものも地味で粗末なものになるのが普通だから、セン子が特別に質実な女だったわけではないというのだ。

それどころか、逍遙の甥で夫妻の養子になった坪内士行は、セン子が極めて我執の強い、競争心の激しい女だったといっている。彼女は17の時から苦界に身を沈めたので、知的なものを受けつける感覚がなくなっていた。逍遙も途中で妻を教育することをあきらめたから、セン子はいよいよ片意地で我執の強い女になったというのである。

だが、松本清張はセン子の否定的な側面について具体例を挙げていない。これはセン子が、彼女の実像を赤裸々に描いたと思われる逍遙自筆の原稿を焼き捨ててしまったからだった。

坪内逍遙は亡くなる十数日前、セン子に書斎の戸棚から稿本を持ってこさせた。そしてセン子にこれをきちんと包装させた上で、「生前に開封を禁ず」と英語で上書きして大切に保管しておくように命じた。

セン子は夫の死後、3年たってこのことを逍遙の弟子の一人に打ち明ける。弟子はセン子から稿本を受け取って河竹繁俊と共に読んだところ、内容はセン子に関するものだった。二人はその夜、ほとんど眠られなかった。

問題は、この稿本をどうするかということだった。逍遙夫人から渡されたものだから、とにかく夫人に一応返さなければならないと二人の弟子は考えた。

稿本に目を通したセン子は、原稿を焼き捨てるように指示したから、弟子はその言葉に従うしかなかった。こうして貴重な記録は失われてしまったのである。
  
問題の稿本が失われてしまったからには、断片的に残されている逍遙の日記に頼るしかない。松本清張は、逍遙の日記を引用してセン子のヒステリーがかなり激しかったことを立証する。

明治36年1月2日
午後せき子(注:セン子のこと)腹痛 夕べになりて打臥す
   ・・・・・・
せき子の病は去夏の持病にひとしきものたる明らかなり 終夜安眠せざりし態也 我もほとほと安眠する能はざりき

4月15日
せき子様子あし ヒステリの気味也

4月16日
三時前帰宅 せき子ヒステリ癒ゆ

大正5年7月5日
午後おせき如例

11日
おせき如例

12日
おせき午後如例

13日
おせき午後如例

14日
おせき如例

8月8日
おせき如例

9日
おせき如例 此夜安眠

9月6日
おせき如例

7日
おせき如例

「おせき如例」という文章は、前後関係からいってセン子がいつものようにヒステリーを起こしたと解釈するのが至当だろう。

逍遙とセン子の関係は、世に流布しているほど美しいものではなかったかもしれない。しかし、松本清張も書いているように、夫妻は「おしどり夫婦」といわれ、どこに行くのも一緒だった。逍遙はセン子のヒステリーに悩まされはしたが、決して彼女を憎んではいない。あの頃に活躍した作家たちの夫婦関係に比べたら、やはり、夫妻は模範になるほど琴瑟相和していたのだ。

美化されすぎているという点では、「鴎外の婢」に登場する木村元も同じではないだろうか。鴎外の「小倉日記」に出てくる女中たちには、まともな女がほとんどいない。手癖が悪かったり、淫奔だったり、次から次にレベル以下の女中が出て来ては去っていくのだ。

しかし、注意すべきは、その多くが鴎外お気に入りの木村元の朋輩なのである。

鴎外は、世間の嫌疑を避けるために、「女中複数制」を取っていた。古参の木村元のほかに、もう一人の女中を置いていたのだ。だが、これは木村元にとって鬱陶しいことだったと思われる。木村元は新しくやってくる女中より年長であり、教育もあった。だから、彼女にとって新参者の弱点をあぶり出すのは、易々たることだったのである。

木村元は、邪魔になる朋輩をはじき出して、鴎外と二人だけの世界を作り出した。出産を済ませて再び戻ってくると、また、彼女は朋輩を辞めさせ、鴎外との水入らずの関係を取り戻している。「小倉日記」には、木村元が結婚のため鴎外宅を去ったと記されているが、松本清張の調査によれば、彼女が再婚した形跡はないという。

(写真は、拙宅の前庭。ちょっと綺麗に見えるかもしれないけれども、それは写真にしたからであり、これも美化された一例になる)