甘口辛口

一番主義の男・伊藤律

2008/5/18(日) 午後 4:29

 (伊藤律)

<一番主義の男・伊藤律>


戦後10年間の政界で、最も注目された一人が伊藤律だった。
伊藤律がどんなに颯爽として活動していたかは、あの時代を生きた人間でなければ理解できないだろう。戦後にはじめて公に市民権を得た日本共産党は、少数の革新派にとっては希望の星であり、大部分の日本人にとっては憎しみの標的だった。その共産党のスポークスマンとして国民注視の的になったのが、伊藤律だったのである。

共産党を引っ張る幹部は、戦前の非合法時代に活躍した古強者たちだった。彼らは、逮捕されてからも転向しないで頑張り抜いた「獄中18年」を誇る闘士たちで、年齢はほとんどが40代50代だった。その中で、まだ33才の伊藤律がリーダーの一人として、というより徳田球一に次ぐナンバー2として君臨していたのだから、世間の注目を集めるのは当然だった。

しかも、彼は頭髪を綺麗になでつけ、共産党員というイメージにそぐわない瀟洒な背広姿でマスコミの前に現れたのである。そのスポークスマンとしての語り口はあくまでシャープだった。記者たちからどんなに辛辣な質問を浴びせられても、冷静な姿勢を崩さない。彼は誰の目にも、日本共産党の次代を担う若きプリンスに見えた。

その彼がゾルゲ事件の密告者であり、多くの同志を当局に売り渡した「生きているユダ」だったと暴露されたのだから、人は皆唖然としたのである。言われてみれば、彼の前歴にはおかしなことが多かった。刑務所では優遇されて看守の助手といったふうな地位につき、一般の囚人が入浴時に半切れの手拭いと千切った石鹸しか与えられない時に、伊藤律だけが長い手拭いと石鹸一個を使うことが許されていた。

彼はまた逮捕されても簡単に出獄を許され、敗戦後思想犯が刑務所から釈放されるときにも彼だけ一足早く出獄している。

尾崎秀樹の「生きているユダ」や松本清張の「日本の黒い霧」を読むと、伊藤律は一番主義に毒された男だという印象を受けるのである。鶴見祐輔は東大出身者には、何でも一番になりたがる「一番主義」の人間が多いと指摘しているけれども、伊藤律は左翼陣営の中で一番を目指した出世主義者だったという感が深いのだ。

彼はまぎれもない秀才だった。

戦前の秀才たちは、旧制の第一高等学校から東大を目指し、それから高等文官試験を受けるのが通例だった。旧制の高等学校は中学校五年を卒業後に進学するのが普通だが、えり抜きの秀才は四年終了で進学することも出来た。伊藤律は四年終了で天下第一の難関校・第一高等学校に合格しているのだ。

一高に入学した伊藤律は、共産青年同盟に加入する。そして、ここでも一番主義を発揮して共産青年同盟の事務局長になる。昭和八年に逮捕され、一高を放校になったのを機に、「末は博士か大臣か」という通常の出世コースをあきらめて、左翼陣営内での一番を目指すことになった。

伊藤律には、どんな世界にいっても一番になり得る才覚があったけれども、拷問には弱わかった。自分に加えられる政治的な攻撃や知的な追求には狡知を駆使して巧みに対応することができる。だが、知恵では対処できない特高警察による拷問のようなものには、簡単に屈服していまうのである。彼は最初に逮捕された時点で早くも降参し、共産青年同盟の組織をすべて白状して釈放されている。

拷問に弱い自分の性格を知ったら、革命運動などから足を洗うべきだったのだ。しかし、そこが一番主義の恐ろしいところで、一度、左翼組織の頂点に立ってしまうと、もうその世界から逃れられなくなる。日中戦争がはじまり共産党再建の動きが始まると、彼は再建グループに加わり中心メンバーの一人になる。そして昭和14年検挙されると、またもや再建メンバーの名前を洗いざらい白状してしまう。

律の取り調べに当たった警部補伊藤猛虎は、彼をつつけばもっと吐くかもしれないと考えて、当時捜査中だったアメリカから帰国した日本人によるスパイ事件について尋問する。すると、伊藤律は北林ともの名前を吐いてしまう。特高警察は、北林ともの線から宮城与徳を洗い出し、ゾルゲ以下のスパイ組織を一網打尽に逮捕するのである。

戦後に日本共産党が結成されると、伊藤律はすぐにこれに参加する。

律の特技は、自分の所属する世界で誰が最も力があるか見抜いて、それにすり寄って忠勤を尽くすことだった。これが一番になる近道なのである。刑務所の内部でも、彼はこれはと思う刑務官の機嫌を取り、教務助手とか図書係などに任命されてきた。戦後共産党組織では、徳田球一が家父長的な権力を握っていたから、律は彼の腰巾着になってGHQの情報を通報し始める。戦前の伊藤律は定期的に特高警察と連絡を取っていたが、戦後は占領軍との間にパイプを作り、機密情報のやりとりをしていたのである。

松本清張は「日本の黒い霧」のなかで、伊藤律が徳田球一などに寵愛された理由についてこう書いている。

< これは、当時の日本当局というよりも、GHQの動きに
対する情勢の正しい判断を伊藤律が体得していたことへの
徳田の信任であろう。

徳田や志賀やまたは野坂のような獄
中十八年組や海外逃亡者にとっては、その理論や行動の抱
負はともかくとして、何といっても、その長い期間、現実
社会から隔離されていた隙間は大きかった。これは彼ら自
身も欠陥として考えていたことに違いない。

云い換えると、
その長い期間、現実社会と隔絶していたことが、情勢判断
の上に、伊藤律のような小才の利く頭のいい男への依存と
なったと思える。>

つまり、GHQではこういうことを考えているとか、このような方針であるとかいう律の報告が正確だったから、徳田書記長は律を信任したというのだ。GHQに関する律の報告が正しかったのは、GHQに流す律の共産党情報が精密だったから、その見返りとしてGHQの側でも正確な情報を彼に流してくれたからであり、彼は二重スパイとしてGHQと共産党の双方を喜ばせていたのである。


昭和24年、共産党を震撼させるような情報が流れてきた。アメリカの上院に提出されたウイロビー報告には、伊藤律の名前がゾルゲ事件の密告者として記載されていたのだ。志賀義雄はこれを為にするデマとして否定したが、伊藤律への疑惑は消えず、律も火消しに躍起になり始めた。「生きているユダ」には、ゾルゲ事件の真相を究明しようとする尾崎秀実の弟秀樹に対して伊藤律が陰に陽に妨害を加えたことが克明に書かれている。

伊藤律は満鉄調査部に勤務していた頃、同じ部署に勤務していた尾崎秀実に可愛がられ、尾崎の自宅をしばしば訪れていた。ウイロビー報告が出てから、律は尾崎未亡人の口を封じようとして尾崎家を訪ね、「情を通じる」関係になった。律は秀樹の姉にもラブレターを出して、籠絡することを試みている。(尾崎未亡人の経歴はかなり複雑で、秀実とは従妹の関係になる。彼女は最初秀実の兄と結婚していたが、秀実と恋愛してその妻になり、そして秀実の死後、夫を売った律とも関係するようになったといわれている)

昭和25年になると、有名な50年分裂が起き、共産党は徳田、野坂、伊藤律らの「所感派」と志賀、宮本、神山らの「国際派」に分裂する。そして、所感派は中国に脱出して、北京から党を指導するようになるが、その中国で所感派がまた真っ二つに分裂するのだ。徳田・伊藤律グループと野坂・西沢グループに割れたのである。日本国内に残った国際派は、所感派のアキレス腱である伊藤律を集中的に攻撃していた。律は腹背に敵を迎えることになったのだ。

伊藤律の運命が暗転したのは、昭和28年徳田球一が59才で死去したからだった。後ろ盾を失った律は、中国当局の手で逮捕され刑務所に幽閉されることになる。律はこの時中国当局から、「これは日本共産党の委託を受けてやることで、中共としてはプロレタリア国際主義の義務なので、問題を日本共産党が解決するまで致し方ない」と因果を言い含められたという。こうして伊藤律は、裁判も、刑の言い渡しもなく、異国の獄中に呻吟する運命となった。80年9月奇跡的に故国に送還されるまで、27年間を幽閉されたことになる。

私たちは、ユーチューブで帰国した伊藤律の映像を見ることが出来る。映像に見る伊藤律、これが一番主義がもたらした姿かと思うと、そぞろ同情の念を禁じ得ないのだ。(youtube.comを参照されたし)