甘口辛口

読み残した本(和郎と桃子)(その2)

2008/5/24(土) 午後 1:32

(左は長男賢樹 右が和郎)


 <読み残した本>



無我夢中で父の家を飛び出したものの、桃子は兄にうながされて家に戻った。兄は、父と桃子の間の緩衝材になっていてくれたのだ。しかし桃子は、その兄を恨むことも多かったのである。母は父からの送金が遅れたりすると、催促の手紙を書いて子供に届けさせる。そんな時に兄が巧みに逃げてしまうので、桃子がイヤな役を何時も引き受けることになるからだった。

母と行動を共にすることの多かった桃子は、よく母と衝突した。

「あんたが三つ、お兄さんが五つ、その時から私は、一人でかうやって、苦労して育ててきたのに。それも知らないで……」

と母は掻き口説いているうちに声がふるえだして、あとは涙まじりのはてしない愚痴になり、しまいに桃子も一緒になって涙を流し、お互いに苛立たしい気持を扱いかねて二人で泣き合うようなことにもなった。桃子は母と手を取り合って泣きながら、こういう愁嘆場を避ける男というものに腹立たしさを感じ、父も兄も勝手なものだと思うのだった。

父と兄は本当に仲がよかった。
父はトランプや麻雀・将棋というような遊びが好きだったが、兄がやってくると二人で徹夜で麻雀をやったりする。母は、兄の賢樹が腎臓結核で亡くなったのも、父の相手をして夜更かしをしたためだと恨んでいた。

兄の病気が重くなったときの父の心痛は、見ていられないほどだった。兄は結核菌に感染した腎臓の一つを摘出していたから、残った腎臓がダメになれば死ぬしかなくなる。父は病気にいいと言われる治療法を何でも試み、高貴薬を買ってきて惜しげもなく与えた。そして24才で兄が亡くなると、棺の中の息子を何時までも見つめて動かなかった。係の者が蓋を手にして困惑しているのを見た母方の祖父は、脇から父に声をかけた。

「もう、あきらめなけりゃいけませんよ」
「ああ」

父はようやく棺から手を離したが、こんなに打ちひしがれた父を見るのは初めてだった。
父は兄の死後、急にしげしげと墓参りするようになった。

これまで兄は父に親しみ、妹は母に寄りそうという具合に役割分担をして両親を支えて来たが、今や兄は亡くなり、父は悲嘆に暮れている。桃子は兄の代わりに自分が父を守ってやらなければ、と考えるようになった。彼女は正月が来ると、最初の二日間を母のもとですごし、三日目に父の家に出かけるようになる。

そして父と同棲していた松沢はまが亡くなり、父の面倒を見る人間がいなくなると、彼女は父に対しても母の場合と等量の注意を払うようになる。両親は兄の葬式のとき顔を合わせただけで、以後再び会うこともなくなっていたのだ。両親にとって残された子供は桃子一人になったのである。

かつて父は次男の身で、一家の難問題を独りで引き受けていた。その父と同じ立場に今度は桃子が立たされることになったのだ。敗戦後の昭和21年に、父を批判する文章を手帳に書き付けた桃子は、文章の末尾に次のような文字を書き加えていた、あたかも15年後の将来を予感したかのように。

<ただ父はあの通りよい人だ。よくもまあ、あの人のよさで、人生を通ってきたとおもふ。晩年はあたしがひきうける。父も伯父も、かねちやんも、たけちやんも、たかちやんも、だれでも私がひきうける。あたしは根のしつかりした生活をする。どうしても。>

桃子が父の唯一の肉親として父の世話をするようになったとき、広津和郎は、「松川事件対策協議会」の会長になっていた。そして、あれほど講演が嫌いだった彼が、真実を訴えるために全国各地に百数十回も講演旅行をするようになっていたのだった。彼は前立腺の手術後で安静を必要としているときにも頼まれれば、講演に出かけた。

桃子は時間が許す限り、父の助手として、また、父の体調管理者として講演旅行に同行している。そして、父が演壇に立つと、聴衆の中に混じって講演に耳を傾け、体調が悪いのか、演壇で父がしきりに水を飲むのをハラハラして見守っていた。

桃子が、結局独身のままで生を終えることになったのも、離れて暮らす父と母双方の介護に追われたからだった。しかし、鋭敏なように見えても、広津和郎はその辺の事情について鈍感だった。

桃子は父の没後、ある作家から父が彼女の身の振り方について気にしていたことを知らされる。その作家は父に、「君はうちの娘に色気を感じるか」と問われたというのである。広津和郎は、自分の存在が娘の結婚の障害になっていることに気づいていなかったのだ。

桃子は、また、伝聞で父が自分のことを批評していると耳にしたことがある。

「娘は調子に乗って、羽目を外すというような性質ではない。それは自分にとって、一面物足りないことなのだが、同時に又、それが安心でもあるのだ」

この話を知らされたあとで、彼女は親しい友人に次のように述懐している。

「私は恋愛問題で親を悩ませるでもなく、結婚の負担もかけない、よい着物をねだるでもなく、別にこれという我侭も言わず、ともに麻雀を楽しむでもなかった。さりとて、親に孫もあたえず、なにか発展的なものをもたらせるのでもない。そういう子を持ったとしたら、これは親としてはつまらないでしょうね。犬だって猫だって悪戯をして面倒をかけられると、口小言を言いながらも可愛くなる。それに似た意味で、父はつまらなかったろうと思うの」

親を心配させなかったという点でも、桃子は父に似ていたのである。広津和郎の兄は、父親に散々迷惑をかけたが、和郎の方は親を心配させたことは一度もなかった。彼は、親にとって面白味のない息子だったかもしれかった。父と娘は似たような性格を持っていたから、似たような状況で生きることになり、家庭内のしわ寄せを一身に受ける運命になったのだ。二人が、時に衝突したのも両者がよく似た人間だったからだった。

広津和郎が亡くなる、二年前のことである。
いつものように桃子が、父の仕事場に出かけて行くと、その日の彼は妙に不機嫌で、タバコを買ってこい、薬を買ってこいとやたらに命令する。そして桃子が持参した支那饅頭を食べて、「この饅頭、不味いねえ」という。桃子も腹を立てて、つと立ち上がった。

すると、それをふて腐れと取った父は、「居なくってもいいんだ」と言い、桃子も「帰ってもいいことよ」と応じ、一触即発の状態になった。台所に行った桃子は、書斎に戻って父の顔を見ると、自分でも思いがけない言葉を相手にぶつけていた。

「お父さんは優秀で魅力に富んでいらっしゃるけど、でも、親という意味ではどういうことになるんだろう」

その言葉を聞くと、広津和郎はしゆんとなった。今の今まで見せていたいらいらとした駄々っ子のような姿は、一瞬のうちに消え、じつと、ものをみつめる様な表情に変わり、寝室との境にある柱に身を寄せかけた姿勢のまま、動かなくなった。

台所に行って気を取り直した桃子は、父の所に戻り、何か相談事でもするような軽い調子で話しかけた。

「ああいうことは言うべきではありませんね、お父さん」

父も恐縮したような口調で、「いや、どういたしまして」と答えた。

父の没後、桃子は父の書斎を整理していて、原稿用紙の綴りを見つけた。
綴りの一枚目の最初の行に一桝あけて「桃子」と記してあり、次の一枚には「桃子、僕は君に今、」と、最初より数語多い文字が並んでいた。さらにそれをめくると、三枚目には「桃子、今、僕は君に」と、順序だけ置き換えた文字が記されている。書きかけて結局、思い迷った末に放棄してしまったらしい自分宛ての父の手紙の文字を見ながら、桃子は支那饅頭で父と争った日のことを思い出したのであった。

広津桃子が、小説を書き始めたのは父が死んでからである。広津家三代目の作家として注目されたが、桃子は未婚のまま70才で亡くなっている。従って、広津家の血は桃子で絶えてしまった。