甘口辛口

「心」の続編(その1)

2008/6/9(月) 午後 6:34
<「心」の続編>


先日、市川 崑監督の「こころ」を見たとき、幕切れの場面がなかなか意味深長だった。原作は「先生」の遺書で終わっているのだが、映画では「私」がその遺書を手に先生の家に駆けつけるところまで描いている。

「私」が塀に取り付けた簡単な門をくぐって玄関の前に立つと、そこには「忌中」の張り紙が出ている。先生は自殺を決行したのだ。私が茫然と立っていると、家の中から喪服を着た奥さんが出てくる。私はその場にへなへなと座り込んでしまう。奥さんは私と言葉を交わす前に、開け放たれたままになっている門の方に進み寄って、目透き戸を閉める。

この時、カメラは門の外に移動する。そして閉じられていく戸が奥さんとその向こうに座り込んでいる私の姿も隠してしまうのだ。ここから先は、介入禁止とでもいうように、戸が悲劇の家を隠してしまうのだ。

ところで先生に自殺されて、残された奥さんと「私」はどうなるだろうか。

漱石は、「三四郎」を書いた後で「それから」を書き、なお気持ちが落ち着かないので「門」を書いて、三部作といわれる連作を完成した。「心」の場合は、先生の自殺によって作品を完結させているので、漱石としては心に残ることはなかったにちがいない。しかし、読者には、「私」と奥さんのその後が妙に気になるのである。市川 崑監督も二人のその後に興味を抱きながら、詮索する気持ちを自ら禁じるようにああした幕切れにしたのだ。

夫に死なれて、奥さんは文字通り天涯孤独の身になった。

彼女は軍人だった父の死後、母と二人だけで暮らしていた。母親は男勝りのしっかり者だったから、一人娘を吹く風にも当てないようにして大事に育ててきた。そのため、奥さんには世俗に染まらない純な気持ちと共に、男を迷わす自然な媚態のようなものが手つかずに残ることになった。「先生」を悩ませたあの挑発するような媚びるような奥さんの笑い方も、母娘二人だけの閉鎖的な生活がもたらした産物に他ならない。

奥さんは先生と結婚すると、今度は夫に手厚く守られることになる。夫が仕事に就かず、一日中家にいるので彼女は安心して先生に寄りかかることができた。

そんな奥さんにとって、今や心を許せるのは「私」だけになった。

「私」は先生の生前、先生のところに通い詰めているうちに、衣服の洗い張りや着物の仕立てなど身の回りの世話を奥さんにしてもらうようになっていた。奥さんは私のために着物を縫ってくれた後で、「おかげで針を二本も折ったわ」と苦情を言ったりする。

食事をするときに「私」が勢いよく奥さんに茶碗を差し出すと、奥さんは遠慮なく反問する。

「お茶? ご飯? 随分よく食べるのね」

子供のない奥さんは、「私」を母性の目で見るようになっていた。その半面、奥さんにとって「私」は異性でもあった。「心」には、こんな場面も出てくる。

<「いくつ? ひとつ? ふたつ?」
妙なもので角砂糖を撮み上げた奥さんは、私の顔を見て
茶碗の中へ入れる砂糖の数を聞いた。奥さんの態度は私に媚
びるという程ではなかったけれども、先刻の強い言葉を力め
て打ち消そうとする愛嬌に充ちていた。>

奥さんは、母と夫を失い寄る辺のなくなった今、「私」に頼るようになった。そして、これまで子供扱いしていた相手に男を感じ始めるのだ。

「私」も奥さんを放っておくことが出来ず、東京に残って仕事を探すことになる。就職運動に熱心でなかった報いで、彼はある役所の臨時雇いの雇員で満足しなければならなかった。

「私」が以前のように先生の家に通っていると、周囲の目が厳しくなった。奥さんは美貌だった上に、小金を握った未亡人という立場になったから言い寄る男たちが絶えなかった。彼らは、私を邪魔にしてよからぬ噂を飛ばすのである。中でも陰湿なのが、先生の生前、資産管理の相談に乗っていた銀行の支店長だった。彼は預金を取り崩して、債券に替えるように奥さんに勧め始めたのだ。先生は財産の三分の二を銀行に預けてその利子を生活費に充て、残りを債券と株で運用して利殖をはかっていた。支店長はこの際、遊ばせていた預金を債券に回すべきだというのである。

奥さんにどうしたらいいかと相談された「私」は、役所でその債券が倒産間近かのボロ会社のものであることを調べあげ、支店長の提案を断るように助言する。以来、支店長は「私」が奥さんの財産をねらっているとか、二人は男女関係になっているとかデマを飛ばし始めたのだ。

しかし、そんな中傷は奥さんと私の間に横たわる障害としては小さなものに過ぎなかった。二人の間にはもっと重大な先生の遺書の問題があった。先生は遺書の終わりにこう書いている。

<私は私の過去を善悪ともに他の参考に供する積もりです。
然し妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻に
は何にも知らせたくないのです。妻が己れの過去に対しても
つ記憶を、成るべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の
唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きてい
る以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡
てを腹の中に仕舞って置いて下さい>

「私」が先生の家に駆けつけたとき、奥さんは、「あなたに電報を打とうと思っていたところなのよ。どうして主人が死んだことを知ったの?」と尋ねた。私は、「先生から手紙が来て、田舎にばかりいては息が詰まるだろう。お父さんの病状が安定していたら、息抜きにこっちへ来たらどうか」と誘われたからだと誤魔化した。

だが、私の弁明は、奥さんの疑念を深めるばかりだった。

「主人は、あなたに上京するように電報を打った後で、ひどく後悔していたのよ。あの人、その後で書斎にこもってせっせと何か書いていたの。あれは、息抜きに上京することを勧める手紙ではなくて、遺書だったんでしょう?」

「いえ・・・・」

「でも、あなたは最初主人が何で死んだかと尋ねなかった。普通は、どんな病気で死んだのかと聞くものよ」

奥さんは真実を知りたがっていた。奥さんは、私が秘密を知っているのに話してくれないと、その後も何度となく責めた。私は奥さんと押し問答を繰り返しているうちに、次第に事実を告げるべきではないかという気になって行くのだ。

最愛の夫に自殺されたら、その理由が何であれ妻としては真実を知りたがるはずだ。先生は、妻には純白の思い出を残しておいてやりたいなどと甘ったれたことを書いているけれども、これは相手の気持ちを無視したひとりよがりな思いこみにすぎない。

「私」は奥さんにさりげなく尋ねたことがある。

「Kという男性も奥さんを愛していたんじゃないですか」

奥さんはびっくりしたように、「あなたはKさんをしらないから、そんなことをいうのよ。あの人は求道者なの。私なんか問題にもしていなかったわ。あんまり私を無視しているから癪に障って、ちょっと私の方からあの人の気を引いてみたことがあるくらいよ」といって笑った。

先生の秘密をめぐり、奥さんと私の間の緊張が高まっていって、ついに私が一切を打ち明ける日が来る。

そして、その日を境に二人の関係は急展開するのだが、結果は吉と出るか、凶と出るか──。