甘口辛口

「精神家」乃木希典の惨劇(その1)

2008/6/25(水) 午後 10:27

(枝豆を食べる乃木希典)

<「精神家」乃木希典の惨劇(その1)>


以前にも触れたように乃木大将に対する評価は、明治世代と大正世代の間で鋭く対立している。明治世代は彼を軍神と仰ぎ、その遺徳をたたえるために東京赤坂の乃木神社を含め全国に四つもの乃木神社を作っている。

明治世代で注目すべきは、世間一般の民衆だけでなく、当時最高の知性だった森鴎外・夏目漱石すらも乃木に敬意を払っていたことだ。鴎外は、乃木殉死の報を聞いて即座に、「興津弥五右衛門の遺書」という作品を書いているし、漱石は乃木の、「明治十年の役において軍旗を失い、その後死所を得たく心がけ候もその機を得ず」という遺書を読んで感動し、作品「心」に「先生」の言葉として、こう書いている。

 「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを
 読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳の
 ために死のう死のうと思って、つい今日迄生きていたという
 意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ
 覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。

 西南戦争は明治十年ですから、明治四十五年迄には三十五年
 の距離があります。乃木さんは此三十五年の間死のう死のう
 と思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそうい
 う人に取って、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹
 へ突き立てた一利那が苦しいか、何方が苦しいだろうと考え
 ました。(「心」)」
     
明治の教養人は、乃木大将の古武士的性格やストイックな生き方を高く評価していたのだ。彼らの中から、「乃木式」といわれる簡素な生活法を実践する者が続出したのも不思議ではない。鴎外も又、乃木式生活の実践者の一人と見られていた。その頃、これら実践者たちは「精神家」と呼ばれた。乃木は「精神家」の輝ける開祖だったのである。

大正世代が反発したのも、この精神家に対してだった。

大正世代はヒューマニズムの洗礼を受けていたから、ナショナリズムと結びついた精神主義など容認するはずがなかった。新時代の若者たちの目には、彼ら精神家はむしろ精神屋というべき存在であり、精神主義の名のもとに習俗に媚びているように見えたのだ。乃木大将は日露戦争後に明治天皇のお声掛かりで学習院の院長になったが、武者小路実篤・志賀直哉など学習院に学ぶ学生たちにとって軍神乃木希典など単なる道化役者に過ぎなかった。

大杉栄の父親は職業軍人で、新発田連隊の内部では「精神家」と呼ばれていた。この父親の下から、アナーキスト大杉栄が生まれたのである。

乃木大将に対する評価は、世代対立ということを抜きにしても賛否両論に分かれ、「殉死」という小説で乃木を描いた司馬遼太郎も、乃木を半ば否定するような書き方をしている。

これまで読んできたところでは、司馬遼太郎は執筆に当たって主人公のプラス面を7割、マイナス面を3割の割合で書いているように思われる。だが「殉死」では、乃木のマイナス面を7割、プラス面を3割の比率で書き、彼の作品としては珍しく辛口の仕上りになっている。そのため、彼は発表に際して読者から反発されるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。彼はこの作品で、「毎日芸術賞」を授与されたのである。私も世評の高さに惹かれて「殉死」を読み、私の知っている司馬作品の中では一番の出来だと感じた。

では、司馬遼太郎は殉死の原因となっている軍旗を奪われる場面をどう書いているのだろうか。

乃木は、問題の西南戦争に熊本鎮台歩兵台十四連隊の連隊長心得として出陣している。連隊長といっても、彼にはまだ実戦を指揮した経験が一度もなかった。

彼はもともと軍人には不向きの人間だった。少年の頃から神経質で脅えやすく臆病だった。長州藩士の子供は、試し切りのために頃野良犬や猫を切ったといわれるが、乃木は恐怖が先だって試し切りすることが出来なかった。

それでも十代の頃、彼は六ヶ月ほど洋式軍事訓練を受けている。これだけの経験しかなかったのに、薩摩藩の黒田清隆が口をきいてくれたおかげで、乃木は23才のとき東京に呼び出されて陸軍少佐に任命されている。そして、その4年後に連隊長心得になって小倉に赴いたのだ。

乃木少佐にとって最初の戦闘は、彼の率いる部隊が熊本城を包囲していた西郷軍の一部と接触したために起きた。乃木隊は400余名、西郷軍もほぼ同数で、昼間の間は、敵味方一進一退で戦っていたが、夜になって薩摩の抜刀隊が夜襲を仕掛けてくると、乃木隊は算を乱して退却し始めた。

動転した乃木は離れた地点にいた配下の一個大隊を呼び寄せるために、自ら伝令になって走り出したのである。連隊長ともあろうものが部隊を捨てて伝令に飛び出すようなことは、どこの国の戦史にも例がない。                      
乃木連隊長と共に最前線にいた連隊旗手の河原林少尉以下の10名は、取り残された状況下で敵の襲撃を受け、河原林少尉は戦死し、軍旗を奪われることになった。

翌日、敵は奪った軍旗を前線に持ち出し、官軍に見せびらかした。帰隊した乃木は軍旗を取り戻すために必死になって戦ったものの、六日目に左足を負傷して野戦病院に送られる。指揮官を失った乃木連隊は他の部隊に組み込まれて雲散霧消してしまう。乃木にとってこれ以上の恥辱はなかった。

司馬遼太郎は、「殉死」のなかにこう書いている。

「 乃木の敗戦についての自責がすさまじく、久留米
 の野戦病院から脱走してふたたび戦線に加わったという、
 そういう悲痛な狂操ぶりも軍首脳に好感をもたせた。

 薩軍が熊本からひきあげたあと、
 熊本城に入った乃木にはひどく思いつめた様子があり、た
 れの目にも自殺の危惧があったために、同郷の少佐児玉源
 太郎がしきりに説諭し、監視し、ついには監視しやすいよ
 うに児玉が上申して鎮台司令部付の参謀にした。(「殉死」)

乃木の自責はそれだけで終わらなかった。参謀の身でありながら、熊本城内から彼は不意に姿を消してしまったのだ。兵士たちは手分けをして乃木を捜し、行方不明三日後に山王山の奥で餓死しようとしている乃木を発見した。

西南戦争以後、乃木の人柄はがらっと変わったように見えた。

それ以前の乃木は、ダンディーな洒落者だったと陸軍大将田中義一は語っている。

 「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。
  着物でも紬のそろいで、角帯を締め、ゾロリとした風をし
 て、あれでも軍人か、といわれたものだ」

遊び人風だった乃木が、軍旗事件以後、表情に陰鬱の色が加わり、大酒を飲むようになった。そして、酒を飲めば必ず荒れるのである。

しかし、乃木の変化にはまだ先があった。ドイツ留学後にもう一度彼の人柄は、がらりと変わるのである。

(つづく)