甘口辛口

「精神家」乃木希典の惨劇(その2)

2008/6/27(金) 午後 0:56

(左が兄の勝典、右が弟の保典)


<「精神家」乃木希典の惨劇(その2)>


西南戦争終了後、乃木は中佐に昇進し、東京に呼び戻されて歩兵第一連隊長に任命されている。西南戦争ではポカばかりしていた乃木が順調に昇進をしていったのは、彼の閲歴の中に陸軍の大ボス山県有朋の副官をしていたという事実があったからだ。乃木の出世はその後も続き、明治18年には37才で少将になり、熊本の旅団長になっている。そして、その翌年には、ドイツに留学しているのである。

この頃、陸軍では、不思議なことが行われていた。

軍制をフランス式からドイツ式に切り替えたという事情もあったろうが、少将や中将が次々にドイツ留学を命じられているのだ。森鴎外のようなドイツ語に精通していた若い尉官が留学を命じられるのなら理解できる。だが、乃木希典などの将官はドイツ語の素養がほとんどなく(フランス語をマスターしている者ならいた。乃木もフランス語を解したといわれる)、年齢も中年に達していたのである。それが相継いでドイツに留学しているのだ。

ドイツに着いた乃木は、ドイツ軍大尉を教官にして作戦全般について学び始める。講義を聞いた後で、教官が出す練習問題に答案を書き、採点してもらうのである。乃木と同時に留学し、同じ教官から講義を受けた川上操六の進歩は目覚ましかったが、乃木は作戦よりもドイツ軍の服装や容儀に関心を抱いていた。

一年間の課程を終えて帰国した乃木は、時の陸軍大臣大山巌に留学報告書ともいうべき「意見具申書」を提出している。内容は二つあって、一つは「操典」の必要性を論じたもので、もう一つは軍人の服装・容儀に関するものだった。

乃木の献策が陸軍によって採用された気配はない。しかし「意見具申書」を提出してからは、彼の生き方は急変する。司馬遼太郎はその変化をこう述べている。

「乃木少将(の態度)だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締
めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰
宅しても脱がず、寝るときも──乃木式といわれ、死にい
たるまでひとを驚嘆せしめたことだが──寝巻を用いず、
軍服のままで寝た。

・・・・独逸人ならば洋式家屋で起居(あたりま
えだが)しているために洋服生活は自然であったが、畳の
上で生活をする乃木希典にとってはこの行態は傍目にはい
かにも窮屈であり、違和感があり、それがために傍目には
悲痛にさえみえた(「殉死」)」

乃木は西南戦争で大失敗を演じたのだから、近代的な戦闘技術や作戦について本格的に勉強すべきだったのだ。だが、彼はドイツ留学の便宜をはかってもらいながら、指揮官としての基本を学ぶ代わりに、精神主義の方向に逸脱して行ったのである。

司馬遼太郎は、「精神主義は無能な者の隠れ簑であることが多い」と記したあとで、「乃木希典のばあいにはそういう作為はない」と保証している。だが、これは読者サービスのための断言であって、乃木の精神主義には自己を隠蔽しようとする偽装の面がかなり強いのである。

精神家乃木希典のモノマニアックな行動で、最も大きな被害を受けたのは彼の家族だった。

乃木は30歳の時、10才年下の静子と結婚し、勝典、保典の二人の子供をもうけている。結婚生活は順調とはいえなかった。静子が二児をつれて別居したのは、乃木自身の乱酔癖のためでもあったが、乃木家に「口やかましい母と心の曲がった妹がいた」ためだったらしい。

彼は結婚式の当日、照れ隠しのためか予定の時刻より5時間も遅れて帰宅している。そして酒宴になると、同僚や部下と深酒をして杯盤の散乱する中に倒れ込んで起きあがることが出来なかった。彼は後述するように「そとづら」が極めて良く、多くの知友に愛されていたが、身内に対しては常に無理無体を押し通していたのである。

二人の息子は長じると、軍人になることを嫌がった。母親の静子も、子供を陸軍に入れることに反対だったが、乃木は委細構わず二人を陸軍に押し込んでいる。そのため、長男は陸軍士官学校に入学したものの、休日に帰宅すると、そのまま学校に戻ろうとしなかった。母の静子は勝典に同情して、これを機に士官学校を退学させたいと思ったけれども、それには夫の許可が必要だった。

この時乃木は、第十一師団師団長になって、四国の善通寺に単身赴任していた。思いあまった静子は夫と相談するため、四国に出かけた。

静子が東京から四国まで汽車や船を乗り継いでやっと夫の間借りしていた金倉寺に辿り着いたのに、乃木は頑として妻に会おうとしなかった。当日は大晦日だったから、乃木は寺院内の自室に閑居して本を読んでいたのである。普通なら、一家の家長は帰省して年末年始を家族と共に過ごすところだが、彼はそうしないで任地から動かなかったのだ。

寺の住職があまりのことに立腹して乃木をなじったが、彼は平然としている。住職が静子を憐れんで、寺の別室に泊めてやろうとすると、乃木はそれも拒んだ。静子はやむを得ず多度津まで引き返して、そこで宿を取らなければならなかった。

乃木が妻に会うことを拒否した理由は、バカバカしいの一語に尽きる。静子が事前に来訪する許可を得ていなかったからだというのだ。妻が切羽づまって手順を踏んでいる余裕がなかったと察していながら、乃木は妻に会うことを拒否し続けたのである。更に愚かしいのは、これを美談として世人が寺の境内に石碑を建てたことだ。題して、「乃木将軍妻返しの松」というのである。

日露戦争が始まり、休職中の乃木希典は呼び出されて第三軍の司令官になった。第三軍の任務はロシア軍の築いた旅順要塞を落とすことだったから、司令官には日清戦争で旅順攻撃を担当した乃木がよかろうということになったのである。乃木を任命した参謀本部も、任命された乃木も、前回の旅順戦が簡単にケリがついたので、旅順攻略を最初から楽観していた。大本営の方針は、「強襲ヲモッテ、一挙旅順城ヲ屠ル」というものであった。

第三軍参謀長として乃木に与えられたのは伊地知幸介で、少尉任官後にフランス陸軍に留学し、中尉になると今度はドイツ陸軍に入学したエリート参謀だった。彼は、「ロシア側の旅順配備は手薄」と予測して肉弾攻撃を計画していた。その後この予測を裏切るような事実が出てきても、乃木も伊地知も最初の作戦を変えようとしなかった。

司馬遼太郎は、乃木司令部の作戦についてこう言っている。

「ともあれ、旅順の山なみを遠望しっつ乃木の軍司令部が
たてた攻略計画ほど愚劣なものはなかったであろう。

その作戦とは、要塞群の間隙を縫い、歩兵による中央突破を断
行して一挙に旅順本要塞の郭内に入る、というものであっ
た。

この計画では敵の砲兵は眠っているにすぎず、敵の監視硝
は盲人であるということを前提としているのであろう。
ほとんど、童話といっていい。しかし、乃木も伊地知も正
気であった(「殉死」)」

乃木と伊地知は、大本営や海軍から203高地が手薄だから直ぐ攻撃するようにと指示されても聞き流し、もっと強力な大砲が必要ではないかと問われても必要なしと答え、ひたすら無謀な肉弾攻撃を繰り返した。すべての助言に耳をふさぎ、連日夥しい戦死者を累積させて行く乃木司令部のやり方は、専門家の目から見れば、無能というより狂人の振る舞いに近いと思われた。この旅順攻撃戦で乃木は勝典、保典を戦死させている。

乃木が苦しんでいなかったわけではない。苦しみ悶えたあげく、彼のしたことは、昔と同じであった。

「 乃木は、戦場での死を求めるようになり、
しばしば戦線視察に出ようとし、出れば不必要なまでに
進出し、わざと敵の飛弾を浴びょうとした。その乃木の
挙動に副官たちは異常さを感じ、現場で制止したり、
監視したりした(「殉死」)」

(つづく)